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「わたしの民は頑なにわたしに背いている」

キャンドルの灯りが先週からまたひとつ増えていくと、ああ、クリスマスが近づいてくるなと感じます。この季節、教会に来るのは楽しい。毎週、色んな集会があります。今日も祝会があります。私は、2年連続H&Mというチームで出ていたのですが、今年は、洵君が方向性の違いで脱退する…いえ、都合が合わないので、チームはお休みです。ですが、楽しみたいと思います。心暖まる、クリスマスに生まれたイエス様の愛をこの季節教会は映し出すんですね。

ですが今日、楽しみの前に、私たちは「どうして、クリスマス、イエス様は来なければいけなかったのか」、それを考えていきたいのです。さきほど共に読んだホセア書11章は北イスラエル王国が繁栄の絶頂にあった時代に語られた神の言葉です。しかし、その繁栄の奥で、人々の心は深い闇に覆われていました。7節にあるように、「わたしの民は頑なに、わたしに背いている。いと高き方に呼ばれても、ともにあがめようとはしない。」神が呼び続けても、振り向かない。やがて北王国はアッシリアに滅ぼされ、捕囚の中へと消えていきます。

手を伸ばして愛を受け取らせたい神

時々、こんな誤解があります。彼らが旧約で知ってた神様の姿は厳しい神だった。新約のイエス様で初めて神様は愛の神だと分かった。イスラエルの失敗は、厳しさより愛でしか人は変われないという事を良く表していると。とんでもない。この表現を見てください。1節「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。」わたしの子と神から呼んでもらえるのは、私達クリスチャンの専売特許ではありませんでした。彼らは、奴隷状態だったエジプトから神によって救い出していただくという深いご愛も経験したのです。

わたしの子。神様が、イスラエルへの愛を語る時、いつも親の愛、夫の愛など、彼らが想像できる、親密な関係で表されます。神の側から、ご自分の愛を、人が受け取りやすいようにとその表現までご配慮される。4節では、神は、ご自分を動物を世話する人に例え、「わたしは彼らにとって、あごのくつこを外す者のようになり、彼らに手を伸ばして食べさせてきた」と仰る。牛やロバの口にはめたくつこを外し餌を与える。その時、わざわざ手を伸ばして口元に運んであげる。どこまでも神の方から近づいてくださる。

この神は、よちよち歩きのイスラエルに、親として、3節「このわたしがエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いたのだ。」正しい歩き方である律法を与えた。自分の腕の中であなた達を守ってきた。あなた達が道を踏み外しそうになった時、何度も私は止めた。それは4節「わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。」動物に、そっちに行くと崖や茨の茂みに突っ込んでしまうからと、動物のためを思う愛情深い引き方をする人のようだった。わたしはあなた達にとってそのような者だったねと主は仰る。

イスラエルの民の二心

しかし、2節「彼らは、呼べば呼ぶほどますます離れて行き、もろもろのバアルのいけにえをささげて、刻んだ像にいけにえを供えた。」土着の、ご利益宗教バアルに彼らは惹かれていきました。

良く言われる事ですが、多くのイスラエル人の感覚としては、完全に聖書の神様を捨て去るというよりは、神様も信じているけど、バアルも信じているというような状態でした。北王国の歴史の中で、預言者エリヤが人々に、「お前たちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば主に従い、もしバアルが神であれば神に従え」と指摘したような、二股をかけていたのです。

当たり前になった神の愛

それくらい、イスラエル人は聖書の神を舐めていたのです。彼らイスラエル人は、自分達の歴史は、聖書の神抜きで語れない事も分かっていました。子どもの頃から神のそんな愛の関わり合いを折に触れ聞かされて育ってきたのです。しかし、その愛が「当たり前」になってしまう。その愛を「軽んじて」しまう。神の恵みが、空気のように、当然の事になっていく。

その時なくなっていくのは神への恐れです。せっかく神は人の近くに来てくれてその近さゆえに神をあなどる。神の小言がうるさく感じる。その時、イスラエルは、バアルに魅力を感じます。この神はひたすらに人に都合の良い神でした。いけにえ以外は人にどんな生き方も求めず、神殿には娼婦がいて、人間の欲望はむしろ大いに歓迎された。魂がそちらに惹かれていってしまう。神が喜ばれない楽しみに耽る。神様以上の存在にしてしまっているものがある。誰かに依存的によりかかってしまう。そんな欲望のままの歩みがありながら、それでも、当たり前のように、自分は変わらずに神様の子どもだと疑わない。家に帰ってこれば当たり前のように「今日のご飯は何?」と言えば、ご飯が出てくると思っている子どものように、神の愛を悪い意味で疑っていない。神の裁きなど口だけだ。だって、何も起こらないじゃないか。神は優しいから。

私達も時にあると思うんです。イエス様は赦してくださるお方だから。教会の神様は愛の神様だから。私の歩みを否定せず、そのままで大丈夫だよって言ってくれるはずだ。でも、それは福音ではない、本当の神様ではない、むしろそれではバアルに近い、ただただ私にとって都合の良い神でしょう。

神の厳しさ

神様は、厳しさを示される。イスラエルに、神様は、恐ろしい裁きが下る未来を神は予告します。5節「彼はエジプトの地には帰らない。アッシリアが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。剣は、その町々に対して荒れ狂い、かんぬきの取っ手を打ち砕き、彼らのはかりごとのゆえに、町々を食い尽くす。」アッシリアが彼らを奴隷として連れ去っていきます。

彼らは、自分のはかりごと、計画を神が壊し尽くしていく様を経験しました。神以外の物に魅了された人生が崩されるのです。あなたの人生が崩れる。その時、彼らは気づくことになるのです。自分が侮っていた、この神の偉大さを。

しかし、その経験もまた、神様の深い自分への憐れみだった。ある韓国の経営者が自分の商売が上手くいくにつれ教会に行かなくなった。でも、経営が傾いて、借金の肩に自分の車も家具も売らなきゃいけなくなった時に初めて自分には教会があると何年振りかに行った。そこで信仰が回復した。最後、会社をとうとう閉じるにあたり、その人は牧師に、会社のお別れの式をしてほしいと頼んだ。そこで、その人は言ったんだそうです。「会社は終わりですが、私には今日が出発です。私は全部を失いましたが、信仰を取り戻しました」

そういう話を聞くと、神の厳しい仕打ちにも、意味があるのだと改めて気づけます。

あわれみで胸があつくなる

ですが、今日の箇所は、神様がそんなこらしめを私達にする時、どんな思いを持っておられたのか、その胸のうちをお示しになる珍しい箇所です。8節「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。」あなたに罰をあたえることを、私が平気でいられると思うか。「どうしてあなたを、アデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。」昔ソドムとゴモラという罪深い町と一緒に神が天から火を降らせて滅ぼしたとされる町です。あの時でさえ心痛めたに違いない神です。ましてイスラエルよ、幼い頃からわたしが導いてきたイスラエルよ、あなたの人生が行き詰ることを私が望むと思うか。「わたしの心はわたしのうちで湧きかえり、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」

子どもを罰を与えなければいけない時、泣き叫ぶ子どもの声を聞くと親は胸が張り裂けそうになります。自分も泣きながらこらしめる事もある。神様があなたを懲らしめた時も、神様は泣いてくださっていたんです。厳しさにもちゃんと愛があった。

舐め腐った相手であっても

でも、それ以上に、今日、気づくべきことがあります。良く考えてみると、神様が、こんな風にこの時胸をうちをさらけ出したのは、懲らしめが現に起こる前なのです。この時の相手は、神から愛されていることを、特別扱いされていることを、何とも思っていない、イスラエルなのです。

これは凄い事だと思うのです。想像してみてください。あなたが親で、でも、言う事を聞かない相手に、お父さんこのままだと絶対お前にこういう罰を与えるぞ、でも、それがどれくらいお父さんにとって辛いか分かるかと泣き出したら、ヘタしたら子どもはもっとあなたを舐めるでしょう。泣き落としかよと。そして、実際ホセアが語った民はこの後も神を舐めるのです。

しかし、神様は、それでも、伝えずにはいられないのです。それでもあなたに愛を、手を伸ばして届けたいのです。相手がそれを受け取るふさわしい状態になっていなくて、そのために舐められて、神の心がさらに痛んでもです。神は、あなたの人生が崩れて、はじめて自分の偉大さを知れとはされない。そんな事したくないから、今、伝えたいのです。今気づいてほしいのです。あなたの罪と共に、そんなあなたが受けている愛の偉大さがどれほどであるか。思い出せたらな、あなたは自分を変えたいと思ってくれるはずだと。

愛において比類のない方

9節で「わたしは神であって、人ではなく、あながたのうちにいる聖なる者だ。」そう神はおっしゃる。この聖なるという言葉は、他と区別されるという意味がもとの意味です。きよさという意味もそこからありますが、わたしは神であって人ではないとその前に仰る事の別の言い回しです。

どんな意味で、“神は人間ではない”のか。冷静で、動じず、感情に左右されないというイメージを持つかもしれません。しかしホセアの描く神は逆です。あなたのためにぐちゃぐちゃに顔をゆがめ、心痛む姿をさらけ出してくる神です。裏切られても、軽んじられても、背を向けられても、なおもその人を追いかけ、捨てることができず、胸の奥から憐れみがこみ上げて溢れ出てくる神の憐れみが今日あなたにも届いている。

「私は神であって、人ではない」それは、愛においてこそ比類のないお方だという意味です。そして、この愛が神の中からあふれ出て地上に現れたのがクリスマスです。「私は神であって、人ではない」と言われた神が、愛のゆえに、人となってくださったのです。神は、怒りと裁きを自ら引き受けるために、御子をこの世界に送ることを決断されました。あなたを罪の裁きの暗闇にどうして引き渡すことができようか。父のふところにいたひとり子の神は、その父の胸のうちで私達罪びとへの憐れみで胸が熱くなっている事を知っていたのです。だから、罪の重荷を背負うために生まれてこられた。これがクリスマスです。

結局、神は、人の近くに来ることを選んだ。神を舐め腐った民に、ののしられ十字架にかけられることになっても。やがて、クリスマスは手あかがつき、社会では商売の道具にされています。クリスチャンの私達ですら、身近すぎてその深さに気づけない時があっても、それでも、神は、あなたのために来てくれた。

人が決して追いつけない愛の深さを、クリスマス、神は示してくださった。だから、私達はそこにおいて神の偉大さに触れるのです。愛の偉大さに触れるのです。それは、今気づけるのです。神は今気づいてほしいのです。今日も、神様は憐れみで胸が熱くなっている。

 

この愛に震える者へ

最後、今日の箇所はこのように終わります。10節「彼らは主の後について行く。主は獅子のようにほえる。まことに主がほえると、子らは西から震えながらやってくる。鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から、彼らは震えながらやってくる。わたしは彼らを自分達の家に住ませよう―主のことば。」アッシリアから北王国の人々が戻ってきたという記録は聖書にはありません。そもそも、神の子が西の地中海世界から来るとなると、これは、旧約時代を超えた、イエス様の救い、それによって神の民が主のもとに集ってくることを表していると言われます。

そこでは、神は獅子のようにほえ、神の子は震えながらくるというのです。しかし、神が咆えるのは、彼らをとらえる者達への敵意はあっても、神の子にはありません。当たり前ではない愛の偉大さを正しくしるものが、その愛に震えながら来る。

アドベントの季節は、私たちを招きます。神の愛に震える者となりなさい、と。イエス・キリストの誕生にあらわれた神のあわれみに、心震えなさい。

今週も、ろうそくがまた1つ灯りました。クリスマスが来ます。クリスマスが来ますよ。あなたにクリスマスが来ますよ。これほどの愛があなたにやってきたクリスマスが来ますよ。私達は、どのようにそれを受け取るでしょうか。祈り、静まりたいと思います(終わり)