閲覧ありがとうございます。
在宅礼拝の際や、礼拝後に読み返すため、ご利用ください。
申命記34章1~12節
ピスガの頂に立って(2025年9月14日敬老礼拝)
人生に区切りをつけていく
この前、私の家族が、私以外、新潟にある妻の実家に帰省した時の事なんですが。妻の父が、車で送り迎えするよと言ってくれたんです。それを聞いて私は、新幹線代が浮いて助かる、と思ったのですが、妻としてはお父さん高齢だから運転心配な訳です。
でも結局お父さんは朝4時に新潟を出て、8時くらいにここについて、1時間ちょっと休憩したら「じゃあ行くわ」と家族を乗せて出発していきました。「高速なんて流れに乗ってりゃいいんだから疲れる事なんてない」と言っていました。
でも近いうちに、そんな風に頼めなくなるんだろうなと思います。妻が独身時代の時から、帰省するたびにお父さんは妻を東京まで車で送っていたそうですから、無口なお父さんの家族への愛情表現でもあるんだと思うのです。それに区切りをつける。その時は、妻もお父さんもきっと切ないだろうなと思います。
約束の地に入れないモーセ
神様にここまで、と区切りをつけさせられた人物がいます。旧約聖書のモーセです。彼は、80歳の時に主に召され、エジプトで奴隷になっていた同胞イスラエル人を引き連れて脱出します。そして、荒野を通りモーセ達が目指したのは、約束の地、イスラエルの先祖達に神様が与えると約束したカナンでした。しかし、いよいよそこに入っていこうとしたとき、その地の先住民の存在におびえた大人たちが、引き返そうと言いだしたのです。モーセが神様を信頼しなさいと言っても彼らは聞きません。結果、主は、この不信仰な世代が死に絶えるまで40年間、イスラエルを荒野の中に閉じ込められたのです。
その間も、忍耐強く民を導いたモーセです。しかし、彼も1度主を信頼することに失敗してしまう。メリバという場所で民の飲む水がなくなってしまった時、神様はモーセに岩に水が出るように命じよと言いますが、彼はその言葉を疑ってしまう。その結果、主はモーセも約束の地に入ることはできないと告げたのです。
でもそのモーセを神様は退けることをせず、変わらずに親しい交わりを彼ともってくださいました。しかし、モーセについては、約束の地には入れない。神様が、ここまでと、区切りをつけたのです。
モーセの懇願
やがて、カナンの地にはヨルダン川を挟んでもう目と鼻の先という、モアブの平原までイスラエルはやってきます。民はお祭り騒ぎ、興奮が広がっていたでしょう。その中で、ひとりモーセは、主の前で、感情が溢れていったと申命記の3章に書かれています。彼は神に祈るんです。「どうか、私が渡って行って、ヨルダン川の向こう側に行かせてください」
しかし、主は3章26節で「もう十分だ。このことについて2度とわたしに語ってはならない。ピスガの頂きに上り、目を上げて西、来た、南、東を見よ。あなたのその目で良く見よ。あなたがこのヨルダン川を渡ることはないからだ。」
もう十分だ。そう神に言われるほどモーセは、自分が約束の地に入れないと言われて以降、何度も何度も、神に懇願し続けてきたのでしょう。どうか、神様、後少し、でいいんです。ほんの少しの、カナンの地の地面を自分の足で踏みしめられたら、もうそれでいいのです。それくらいだめですか。
主に閉ざされる
私達が人生の中で様々なものに区切りをつけていく時、叶うなら、もう少しだけ、続けていたいと願うことがあります。もう少しだけ仕事を続けていたい。自分のやってきた事の結果を見届けたいんだ。家族のために誰かのために、やり続けてきた事がある。それで現に助かっているあの人がいる。喜んでくれる人の顔がある。自分もやりがいを感じている。あと少し、できるのではないか。
同時に、でも、もう体力的に難しいと、うすうす感じ始めている。家族にも、お父さんそろそろじゃないと言われ始め、そうなんでしょうかと神様に祈りで問いかける。でも弱気になっているだけかもしれない、神様、私はまだ続けたいんです。
もう十分だと言ってくれる神様
しかし、神様は、モーセに「私はその祈りは聞かない」とここで言われたのです。
「もう十分だ」。モーセが、御心を受け止めきれずに、叫び続けた祈りを、全部主は聞いていたのです。モーセ、あなたの辛さが、分からない私だとあなたは思うか。あなたの無念さを、どれほどの思いをあなたがこの事にかけてきたか、知らないはずがない。その上でこの御心をあなたに示した私だって辛い。もう十分だ、もう言うな。
そして、あなたがこの事で苦しむのはもう十分だ。だから、私は今もう一度あなたにはっきり、あなたはヨルダン川を渡れないと言わせてくれ。そしてモーセ、あなたの残りの人生はもはやわずかだが、新しい視点で生きてくれないか。私はあなたに、やってほしいことがある。
次世代を励ます
続く3章38節で主はモーセにこう言われたのです。「ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼がこの民の先頭に立って渡って行き、あなたが見るあの血を彼らに受け継がせるからだ。」
次世代を力づけ、励ますこと。自分が渡らない、ヨルダン川を渡った先で待っている日々の励ましになる言葉をかけること。
しかし、どうやって次の世代を励ましたらいいのでしょう。彼らがこれからする経験は、私がしてきた経験とは違う。
ある婦人がこんな事言っていました。「先生、教会で若い人に声かけるの、怖いわ。自分が気づかないうちに、自分の時はこうだったという年よりの自慢話に付き合わせちゃうんじゃないかと思って」そんな事ないですよ。と私が言うと、その方はこう言ったんです。「本当?私の娘にしょっちょう言われるの、孫の事で自分の頃の子育ての話すると、時代が違うんだから黙っててって」
確かに時代の違いはある。でも時を超えるもの、どの時代を生きてても大切にしたいものってやはりあるんです。私は、西本先生から沢山の事を学ばせていただいています。でも、先生が、「今の時代は、色々難しいね」そう言ってくださる時、凄く心が楽になるんです。当然、昔の時代は大変だった。でも、今の時代を生きる人を応援しながら、知恵を語ってくれる年長者の存在は私達の財産なんです。
主との経験に裏打ちされた励まし
何より、モーセがヨシュアを実際にどんな風に励ましたか。31章7節を開いてください。「それからモーセはヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの目の前で彼に言った。強くあれ、雄々しくあれ。主がこの民の父祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたに先だって進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」
これは、全部、モーセ自身が経験した神の恵みでした。モーセは、自分の神様との経験に裏打ちされた励ましを若いヨシュアに伝えたのです。ヨシュア、あなたは神に選ばれた、そう励ますモーセこそ、今日の聖書朗読の箇所だった34章10節では「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は主が顔と顔を合わせて選び出したのであった。」彼もかつて選ばれた。あの神の山ホレブで、イスラエル人をエジプトから導き出すのはあなただと。その時、モーセに主が「わたしが、あなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」と言ってくれた。そして、今モーセは、ヨシュアに主がああなたとともにおられると語り掛けるのです。
次の世代が一番聞きたいこと
私の人生に現れた、その主が、あなたともともにいる。それこそが時代を超える。語ることができる次の世代への励ましではないでしょうか。
そして、次の世代が、一番聞きたい言葉なんだと思うのです。
ヨシュアがモーセに言われたように、恐れてはならない、おののいてはならない。恐れそうになるんです。おののきそうになる。皆さんの下の世代は、体だけ大きくなったけど、変わらずに怖がりなんです。さっき賛美してくれた子ども達のようだった頃から、変わってない。自分のこれから進んでいく将来に。日本の社会はこれからどうなって行くんだろうか。自分の仕事人生は、家庭人としての歩みはどうなっていくんだろうか。子どもはちゃんと育っていくだろうか。自分の信仰は保っていけるだろうか、今の奉仕を続け、教会を支えていけるだろうか。教会はどうなっていくのか。私達は内心不安で、本当は誰かに励ましてほしい。
でも心のどこかで、「私達の時代はね、もっと頑張ったんだ」と言われ落ち込むんじゃないかと恐れてる。上の世代も、時代に合わないことを言っちゃうんじゃないかと、口をつぐんでしまう。伝えてあげほしい、あなたが経験した主のすばらしさを。私にどれほど主が良くしてくださったか、不安だったよ、あの頃、あなたをちゃんと育てられるか。仕事行き詰ったよ、奉仕続けられないと思った事が俺にだってあったよ。その内側を分かち合ってほしい、でもね、主は共におられたよ。あなたの人生にも、同じ主がいるよ。それは決して自慢話にはならない。
自分は彼らが進んで行く未来を、共に歩むことはない。彼らはヨルダンをこれから渡っていく、私は区切りをつける。しかしあなたが語る主の励ましが、未来に進んでいく世代の背中を押していくんです。
ピスガの頂きから見える景色
モーセも、そんな風にヨシュアを励ましながら、彼自身も励ましを受けたと思う。もう十分だ。もう、約束の地に入らせてくれと祈るのはやめなさい。ヨシュアを力づけ励ますのだ。そう、言われ、モーセは自分に与えられた役割を果たし終えました。イスラエルの民にもこの申命記で、主に従うことの祝福を語り、祈り終え、もう1つ、主から言われた事をモーセは実行します。ピスガの頂きに登り、約束の地をながめなさいということでした。
34章1節「 1モーセはモアブの草原からネボ山、すなわち、エリコの向かいにあるピスガの頂に登った。主は彼に次の全地方をお見せになった。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地を、すなわち、なつめ椰子の町エリコの平地をツォアルまで。そして主は彼に言われた。「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与える』と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。」
信仰によって見せてくれる祝福の実現
そこからは約束の地すべてが、欠けるところなく見渡せました。それほどに広大な土地が、この場所からは不思議と、遮るものなく見えたのです。そこへ登れと言われた、これは、神様からの愛するモーセへのプレゼントだったのです。
モーセは万感の思いを込め、その光景を見つめます。7節で「モーセが死んだ時は120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」彼の目はかすんでいません、ちゃんと見ることができました。自分も次の世代と共に行きたかったけど、行く事のできない、神の約束が果たされていく未来の光景が見えた。そこでどんな営みがなされていくのかは、モーセの目に見える土地の細かなところは彼に見えないように分からない。でも、神の約束が次の世代に成就していく事だけははっきりと分かる。
彼はそれを信仰の目で見たのです。信仰者はピスガの頂きに、祈りの中で立つ。
婚約式のスピーチ
今日の箇所で思い出す話があります。
母教会で、結婚式がありました。女性の方のお父さんが、私と同じ神学校に行っていって、奨励をしたんです。末娘の結婚ということで、思うところもあったのでしょう。「私は今、ピスガの頂に立つモーセの気持ちです。この2人が今日結婚して、幸せな家庭を築いて、歩んでいく人生を、でも、私は途中までしか共に過ごせない。」私の近くに座ってた婦人は、まだ別にそこまでの年じゃないじゃないと笑っていましたが。でも、高齢者に入っていく自分を思う時の正直な気持ちだったんでしょう。いつまで自分は娘夫婦と一緒に歩めるかな。いつまでじゃあないんだな。してあげたいと思っていることも、今してあげていることも全部できなくなる日が来る。
でも、その人は、顔を真っ赤にしながら、笑って言いました。「でも、私は、ピスガの頂きで、約束の地をモーセが見たように、彼らの人生に主が共におられ、祝福してくださるその未来が見えます」と。
新しい歩みが始まる
5節「こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ。主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。モーセが死んだ時は120歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。イスラエルの子らはモアブの草原で30日間、モーセのために泣き悲しんだ。こうして、モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。イスラエルの子らは彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行った。」
ヨシュアが歩み始めます。知恵の霊に満たされて。彼はモーセの従者でしたから、ピスガの頂で、喜びに満たされて天に召されたモーセを見届けたのでしょう。今日の34節のモーセへの最後の主の言葉は、彼がモーセから聞いたから記録されたのでしょう。
信仰者の生涯はこのような喜びで閉ざされる。最後まで主はモーセと共にいた。モーセから最後まで励ましを受け、ヨシュアは進む。皆さんのヨシュア達が進んで行く。その日まで励まし続けていきましょう。私達は励ましを受け続けていきましょう。(終わり)