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Ⅰヨハネ4:7-11

ここに愛が(2025/12/21  クリスマス特別礼拝)

ここに愛がある

今日の10節は「ここに愛があるのです」と言い切っています。気持ちいいくらい断言している。ありがたい事です。愛がどこにあるだろうと私達分からなくなったら、いつだって、ここを見ればいい。捜し物をしていて見つからない時、本当に困ります。私は家で良くスマホが見当たらない、鍵がないといって探しています。人生の結構な時間を探し物で使っている気がする。でも、愛については、私はもう探さなくていい。ある日聖書開いたら、このページがなくなる事もない。愛はここにある。どこにも行かない。

愛を必要としている私達

私達は、生きる上で愛を必要としています。夜中、私の隣で寝ている子どもが寝ぼけながらむくっと起きて、私を見つけて安心して、胸に顔を寄せてまた眠る。ああ、私はこの子達に必要とされていると思う。

その話を子育ての先輩にするとですね、「そんなの後数年だよ」と恐ろしいことを言われました。まあ、でも、私自身を振り返っても、自分の部屋で寝るようになって、親の愛よりも友達や異性の愛が大切になっていったものです。そして、私の人生は、実に色んな人の愛によって支えられてきたなと思うんです。その中には、私が気づかなかった愛も沢山あったとは思います。

アガペーの愛は教会だけか

だからです。ここに愛があると聖書は言います。神様の愛が語られます。でも、ここにしか愛はないのでしょうか。神の愛以外には愛は存在しないのでしょうか。これ大事な事だと思うんです。私は24歳で初めて教会に行きました。神の愛に出会って辛かった人生が変わりました。でも、その事をクリスチャンじゃない母親に電話で話すと、「そんな辛い時に助けてあげられなくてごめん」と泣かれたんです。多分、だから、これ、私自身のこだわりなんです。ここに愛はある、とは、ここにしか愛はないということか。7節に「愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています」とあるけれど、神をまだ知らない人には愛はないのか。

確かに、ここで言われている愛は、特別な言葉です。アガペーというギリシャ語で、これは自己犠牲の愛を表します。相手のために自分を与える事に喜びを覚える愛です。そう言われると確かに、巷の多くの愛と呼ばれるものは、見返りを求める損得勘定の愛がある。でも、中には、無償の愛に近いものだってあった。親の愛なんてまさにそうです。子どものために一生懸命働いて、ご飯作って、母親にとって私はまさに生きがいだった。

愛は神から出ている

聖書は「愛は神から出ている」と言います。私達がこれまで受けてきた、受けている人からの愛は、すべて神から出ていました。小さい頃の、私達がねぼけて近づいて、安心したあの両親の腕の温もりを通して神はあなたを愛していました。学生時代の自分を支えてくれた親友の存在、あなたの隣で人生を歩んでくれている伴侶の笑い声の中に、神はいて、私達に必要な愛をくださったのです。

愛がある者は神を知っているという7節の表現は、この手紙がクリスチャンに向けて書かれ、互いに愛し合いましょうと言われている、この文脈で考える必要がある。8節で「愛のない者は神を知りません。なぜなら神は愛だからです。」クリスチャンこそ、愛に生きることができる、なぜならあなたの信じる神が愛だからだと。

ここに愛がある。それは、ここにしか愛がないという事ではありません。あなたの人生にずっと人を通して神の愛はあった。私達は色んな理由でそれに気づけないから、完全に純粋な形でここに神様はその愛が示されたのです。そして、そこ「ここに」、今日の箇所が言っているのはクリスマスに起きた出来事です。9節「神はそのひとり子を世に遣わし」10節にも「御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

無条件の愛

クリスマスの出来事は教えます、どれほどこの愛が無条件であるか。2000年前のクリスマス、ユダヤのベツレヘムで生まれた神の御子について、天使が知らせた相手は羊飼いでした。彼らは別に教養もなく社会の除け者で、その服は獣の匂いが染みついて取れなかった。東京の山の手線に乗っていると、汚い服をきたホームレスの人が、沢山の荷物を抱えて入ってくる。夏場とかだとあまりの匂いで周りが逃げ出す。けれど、天使はそんな羊飼いにイエス様を会わせようとしたんです。しかも、羊飼いは別に救い主を特別待ち望んでいません。信仰深かったわけではない。だから神様のこの人選は、ただ1つのメッセージがあるんです。

この方は、全ての人のための来られた方。神は、あなたが何か特別に立派だから、キリストを遣わしたんじゃない。あなたが良い子だから、愛しやすい相手だから愛するのではない。何なら、あなたが神様をちゃんと愛するかならばという条件もつけず、クリスマスあなたのために人となって来てくれた。10節「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛してく」た。

あなたに向けられた愛

だからこの愛の対象から外れる人なんていない。自分に向けられていない愛ほど残酷なものはないでしょう。私がまだ教会行っていない、丸の内のレストランで働いていました時、そのお店はクリスマスシーズンは通りのイルミネーションを窓から見えるというので、24日はカップルの予約で満席になりました。香水と愛の香りをお店中に充満しながら、人の幸せが自分の幸せなんて到底思えない私は、苦虫をかみつぶして接客をしていたものです。ひがんでるんだ、寂しい奴めと同僚達にからかわれましたが、じゃあ閉店後に飲みに行こうかと私が誘うと、予定があるからと全員足早に帰っていきました。コンビニで、おひとり様用クリスマスケーキというショートケーキにサンタの砂糖菓子が乗ったケーキを買い、大塚のひとりぐらしのアパートで涙した夜を忘れません。

今年のクリスマス、あなたは、誰かの愛に選ばれていないかもしれない。家族の誰とも過ごさないかもしれない。でも、神の愛にあなたはちゃんと選ばれているんです。クリスマスって、本来、そんな愛を思い出す季節なんです。聖書の中にこういうことばが書いてあります。「たとえ、母がその子どもを忘れても、わたしはあなたを忘れない。」あなたがどんな社会の片隅にいて、人から忘れ去られていても、神は忘れないっていうんです。

罪を許してくださる神様

神様が忘れるものが一つあります。それはあなたの罪です。聖書には、「わたしは彼らの不義をあわれみ、もはや彼らの罪を思い出さない」という神のことばがあるのです。教会が語る神様の愛はいつも、罪の許しと結びついています。今日だって、イエス様がこの世に遣わされたのは、10節で「神が私達を愛し、私達の罪のために、宥めの捧げものとしての御子を遣わされました。」とあるのです。

私が許されるべき罪とは

じゃあ私達が神に許されるべき罪とはなんでしょう。

私にとっての罪とは、愛し合えないという事だったんです。

私、先輩の牧師先生に言われたんです。「幹先生ってさ、自分の事結構好きだよね」「すいません」「いや、良い事なんだよ。多分君は、親に愛されていることを疑わずに育ったんだね。だから自分を好きでいられる。」だとしたらその愛を当たり前に感じ、外の社会で自分は自分が思うようには人から十分に愛されないと感じてきた。子どもの頃海外から戻ってきて、周りに分かってもらえない。俺の居場所はここじゃないと、レストランに就職しても、長続きしませんでした。

でも、愛はあったんですよ、不十分だったかもしれないけど、神様は色んな人を通して私を愛してくれてた。そして愛の不十分さで言えば、私自身の愛だってそうなんですよ。

神様の愛は、私達を通して人に注がれていく。クリスマス、神を知らない人達の間でも、こんなにも街が暖かい雰囲気なのは、神の人への優しさがいたるところで溢れているからです。でも、神の愛は、私という存在を通した時に、不純物が混じりこんでしまう。自己中心さが入ってくる、条件が、見返りをどうしても求めてしまう。愛しやすい相手しか愛せず、相手の事も分かろうともしない自分がいるのに、相手の不十分さゆえに、相手の愛情を認めない。そんなものは愛ではない。相手の愛の欠点ばかりが目につく。自分だって不完全なのを棚に上げていないで、精一杯してくれてありがとうってあなたが一言言えば、向こうも愛されたって経験ができるでしょう。今日の聖書の箇所、3回も言われていることは、互いに愛し合うことですから、ちゃんと愛される、愛を受け取ることも私達求められている。なのに、愛を受け取れない。

何よりこんなにも愛してくださる神を私達の側は愛して来なかった。神に私達はこんなにも期待されている。12節「いまだかつて神を見た者はいません。私達が互いに愛し合うなら、神は私達のうちにとどまり、神の愛が私達のうちに全うされる。」全うされる、これは目的を達成するという意味です。神の愛は、私達を通してお互いに表される時、目的を達成する。あの人は神の愛を必要としている、その愛を今届けるのは傍にいるあなたなんだと。その神の期待を裏切り続けてきた私達がいる。

なだめの備えもの

 しかし、そのあなたの過去を私は全て許すと神様は仰る。私はその罪を忘れると仰る。でも、そのために神がしなければならなかった事がある。10節にある「私達の罪のために、宥めの捧げものとしての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」なだめの供え物とあります。神様があなたの罪を許すために、あなたの代わりにあなたの罪の罰をイエス様が受けなければならなかったのです。

そのために、遣わされた、クリスマスに生まれた赤ん坊でした。

それまで私も気づけなかったのです。でも24歳の時、職場で出会った将来妻となるまきさんから、あなたのためにイエス様が十字架にかかってくれたと聞いた。うちかえって、1人シャワー浴びながらその事ぐるぐると考えた。十字架っていったら、私も中学の頃、ネックレスつけてた。十字架?インターネットで検索した。イエス様がはりつけになっているリアルな宗教画の画像が出てきて、うわ、グロと思った。ネットに、聖書の愛のことばっていうまとめサイトがあった。そこに今日の箇所が書いてあったんです。

ここに愛がある。この十字架に愛がある。 大人になり、捕らえられ、むちで打たれはりつけにされ、手に釘をさされ、いばらの冠をかぶらけられて、最後の一瞬まで、血を流し、死んでいったのは神の愛でした。あなたへの神の愛でした。

イエス様は、十字架の横木に手を両側に広げられていました。期せずして、両手を広げ私のところに戻ってきなさいと神は示されたのです。私は、最終的に、イエス様のその胸に飛び込んでいきました。子どもの頃、きっと私が、夜中起きて、横で寝ている親を探して、見つけて、安心して胸に抱きついたように。ここに愛がありました。

いのちを与える愛

 そこから、13年、私は夫になりました。親になりました。そして、この神の家族の教会の牧師になりました。自分の愛の足りなさを思います。クリスチャンになって、俄然、愛の人になりましたと言えたら、じゃあ信じてみようかなと言う人もそれで出てくるんじゃないかなと思うと、神様に申し訳なく思います。

 でも、ですね、私これだけは言えるんです。神の愛に気づきながら生きていけるって幸せな事です。私24歳の自分に何度戻ったとしても、絶対にこの神様を受け入れます。まだだまだ人生続いても、もう探し物は見つけています。神の愛を。

私達がイエス様を信じた時9節に「その方によって私達にいのちを得させてくださいました」どんないのちが与えらえたのか。神の愛に気づくいのちです。人の中に、神の愛を見いだせるいのちです。私の中にも、この愛があって、私を通して、不完全でも、表れてくれるんだと信じられるいのちです。互いに愛し合いなさいという神の命令に答えたいと思ういのちが与えられたのです。

クリスチャンそれは、愛し合うことを諦めないでいられる人です。私達、いつもここに、今日の箇所に戻ってこれるから。そこでは11節にこう言われています「神がこれほどまでに私達を愛してくださった」その事実にいつも私達戻ってこられるから、前を向ける。

今日の箇所で、2回「愛する者達」とこの手紙を書いた人は言っている。この人は人間です。私達と同じ自分の愛の欠けを知る人です。です、恐れないでこの人は、愛する皆さん、と自分の愛を表す勇気を持っている。こんな愛だけど、それでも、あなたを愛したい。今更そんな言葉をかけたって、と諦めず、あの人を愛したい。

この愛を受け取ってほしい

 ここに愛がある。これは招きの言葉です。ここにあなたの探しものがある。この愛を受け取ったら、あなたは変わる。どうか受け取ってほしいのです。これまで愛せなかった、素直になれなかった、そんな生き方をあの人達に対してしてきた時間がどれほどあったとしても、イエス様は、あなたを変えてあげると言うのです。私の愛を受け取りなさい。私はあなたを許したから、十字架にあなたのためにかかったから、あなたに新しい力を与えるから。愛に生きる力を。

この救いを受けるためには、イエス様を信じるだけ、後は何もいりません。イエス様が、私の罪のために死んでくれた。そう信じるだけで救われ、あなたの生活は変わっていきます。そこにある愛に気づけます。聖書の事を知らなくても、良いのです。教会にどれくらいいたかも関係ありません。私自身何も知らなかったし、教会に行った事すらなかったのです。ああ、神様、私の人生を変えてください。そう願うなら、この愛をただ感謝して受け取ればいい。(終わり)