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ヨハネ3章22~30節

花婿の声が聞こえるか(2026年3月8日)

久しぶりのヨハネ登場

 23節「一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。」久しぶりに、バプテスマのヨハネが登場します。思えば、この福音書は、序文と呼ばれる部分が終わった後で、イエス様よりも先に、このヨハネの姿を私達に見せたのです。彼が活動するヨルダンの川向うにはイスラエル中から人が押し寄せていました。この人こそキリストなのではないかという期待さえ寄せられていました。けれど彼は「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」そして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とイエス様を指し示す。その結果、この福音書もイエス様に注目が移って行くんです。

他の福音書でも、ヨルダンにいた頃のヨハネを書いた後、ほとんど彼の事を記録しません。次に彼が話題に挙がるのは、ヘロデ王に捕らえられた事がイエス様の耳に入った時です。一方今日の箇所、24節「ヨハネは、まだ投獄されていなかった。」この時期のヨハネについて私達が知る唯一の資料です。彼は、場所をサマリア地方のアイノンに移していました。そこで、変わらずに、バプテスマを人々に授けていたのです。

「皆があの方の方へ行っています」

しかしずいぶんとヨハネの周りの状況は変わっていました。ある日25節でヨハネの弟子達と「あるユダヤ人とがきよめについて論争をした。」とあります。ヨハネのしているきよめの洗礼についてイチャモンをつけてくる人がいたのです。その人が、ヨハネの活動も最近はずいぶんと落ち目じゃないかと皮肉を言ったのでしょう。それをきっかけに弟子達は日頃思っていた事を言いに行きます。26節「彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんとバプテスマを授けておられます。そして、皆があの方の方に行っています。」

「皆が行っています。」それはあきらかに誇張でしょう。引き続きヨハネのところに洗礼を志願する人達はいたのです。でも皆がという言葉にヨハネの弟子達の焦りと、苦々しい思いがあるように感じます。ある意味で、ヨハネの働きはピークを過ぎていました。人々の関心は、新しいイエスの活動に向けられている。自分が人々から忘れられていく感覚、この葛藤から、ヨハネだって完全に自由でいられたでしょうか。

旬が過ぎた人

若者言葉でオワコンという言葉があります。終わったコンテンツの略です。以前は誰もが熱中していた流行が、下火になる。そして芸能人とかの事も、あの人はオワコンだと言う時、もう過去の人、旬が過ぎた人だという意味です。

私が参加している説教の勉強会では、私は一番若くて、「若いってだけで、可能性の塊ですね」とチヤホヤしてもらえます。でも、この前、学生伝道の働きをしている方との勉強会に私も呼んでもらったのですが、そこでは皆私よりも若いのです。肌がつやつやしてるのです。そして、感覚や使う言葉が若いのです。等身大で、学生の気持ちに共感しながら自然に聖書を語れるという意味では、私はもう全然若くない。JYでもそういう意味で旬なのは、私じゃなく、洵君なんです。旬だけに。そんな親父ギャクを言ってしまう年齢になってしまいました。

4月の年度代わりになると、職場でも新しい人が入ってきます。若いというだけで無限の可能性を持った新人と、会社の期待を背負って自分の部署にやってくる人がいる。注目も評価も自分からその人に移っていく。ヨハネの弟子達は言いました。「先生。ヨルダンの川向うで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんとバプテスマを授けておられます。」なんと、よりによって先生と同じ事をやっています。でも、他の人がどんな働きをするか私達には決められない。「皆があの方のところへ」誰も自分を見てくれなくなった気がする。自分の影響力がなくなったと思う。

あるいは旬が過ぎるという意味で、子育てにも旬があるのでしょうか。桜が咲く頃、小学校の入学式の季節。お母さん、学校に登校するの一緒についてきてと言われたあの頃、忙しかったけど求められている充実感があった。

人は天から与えられなければ

自分が忘れ去られていく経験。物事の中心から外れていく感覚。自分のやっている事が色あせて見える。でも、ヨハネは、そんな自分に起きた変化を、受け入れる事ができました。30節「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」なぜそう思えたのか。ヨハネはまず言いました。27節「人は天から与えられなければ、何も受けることはできない。」自分の働き、自分の評価、自分の影響力、自分の時代、でもどれも本当は「自分のもの」ではない。天から与えられたものです。

もし与えられたものなら、取り去られるときもまた、天からのことです。役割が減ることも、注目が移ることも、神の主権の中にある。彼はまずここに立とうとしました。

召しに戻る

 その上で、さらに、ヨハネにとっては、例えピークが過ぎた自分の働きであっても、変わらずに日々淡々と取り組むことができたのは、そこに彼の召しがあったからです。28節「『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証してくれます。」弟子達にも再三言っていた。自分の召しは、キリストの前に遣わされ、キリストを人々に紹介し続けること。イエス様がこうして公にご自分を世に現わし始めた今、確かに、状況は変わった。もはや私自身を通さずとも、直接イエス様のところに人々が行ってくれたらそれでいい。でも、だとしても、イエス様を紹介する私の召しそれ自体は何一つ変わらない。たった1人でも、まだイエス様を知らずに私の所に来る人がいるならば、その1人に私はあの方を伝えたい。

彼は自分が何に召されたか、きっと絶えずそこに戻っていたのです。

皆さんの召しって、何でしょうか。

召しには、2種類あると思うんです。1つには、今あなたがやるように神に言われている働きです。それはもう終わりと神様に言われない限り、どんなに状況が変わってもあなたの召しです。

ある神学校の元校長先生で、日本でも指折りの説教者と言われた先生が、今、四国の小さな教会で牧師をされています。その教会がユーチューブに毎週の説教を公開されているのを見つけましたが、全然再生数は多くありません。でも、そこに流れてくるのは、聖書と群れを愛する、切れ味するどい説教です。どこか大きな集会に呼ばれるとか、何人が聞いてるかではない所を生きている人の説教でした。西本先生がいつも召しに忠実にあるように、仰います。自分が何に召されたのか、そこにいつも戻っていく。そんな人にとって旬が過ぎるなんてないのです。その召しに応答した時、その1人に洗礼を授けた時、いつだって新鮮な喜びがヨハネの中にあった。

花婿の喜びの声が聞こえる

なぜなら、イエス様が喜んでくれているのか彼には分かるから。29節「花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ち溢れています。」「花婿の友」とは、ユダヤ地方において、結婚式の準備を整え、婚礼を取り仕切る役割を担っていました。花婿の代わりに花嫁を彼女の家に迎えに行くことまでしたんだそうです。そして婚礼に連れて来た花嫁を花婿が手を広げて喜んで迎えるのを、そばに立ってにこにこ眺める。それだけでなく、ある書物の説明によると、やがて婚宴も終わり、新郎新婦だけが部屋に入る。その時この花婿の友だけは残って部屋の外にあって一晩中番をするそうです。部屋の中から聞こえてくる花婿の喜びの声に耳を傾けてそれを喜ぶというのです。

29節に「大いに喜ぶ」とあります。喜びに喜びが重なると訳してもよい言葉です。花婿イエスの喜びの声に、自分の喜びが重なる。

この花婿の友でいることこそが私の召しだ、そうヨハネは理解していました。ヨハネには変わらずに、花婿の喜びの声が聞こえていたのです。皆さんにも今も聞こえているでしょうか。あなたの召しによって、神が欲しい喜びがあるんです。あなたがその職場にいることは意味がある。その学校に通っていることにも、あなたがあの人達と関わっていることも、その子の親であることも、そこに神の召しがある。そこにおいて人に仕え、神の喜ばれる世界を実現し、人をイエス様のところに近づけていくこと。そのために生きようとするあなたへのイエス・キリストの喜びの声が日々聞こえているでしょうか。

栄えるとは、衰えるとは

自分の働きが目に見えて祝福されているかどうかではない。自分が何をしているかではない。自分がしていることを前よりも相手からですら評価されなくなっても構わない。世間から忘れら去られる事もどうだっていいのです。他の福音書記者からももはや取り上げられない、ピークを過ぎたヨハネの働き、しかし神からはヨハネは忘れられていないのです。この神の喜びの声を聞き取って生きていく時、変わらない歩みを続けることができる。

そして、それは、例え今の働きを終えてもなお生涯続く私達の神からの召しではないでしょうか。この後、ヨハネは捕らえられるのです、強制的に働きを続けられなくなるのです。でも、彼の心の中に、花婿の友でいたい、イエス様に喜んでもらいたい、そのために私は生きるんだ、その召しはずっと続いたのです。牢獄の中でも。何ひとつできなくなってもです。

その意味では、ヨハネは最後、30節で「あの方は栄え、私は衰えなければならない」そう言いましたが、それは、神に対して、ずっとヨハネが思ってきたことです。

クリスチャンの生き方はずっとそうなのです。私の心の中で、イエス・キリストが栄え、自分という自我は衰えなければなりません。この栄えるとは、増えていくという意味です。月が満月に向かって満ちていくように、心の中の隅々までイエス様を思う私の願いが行きわたっていく。代わりに、衰えるとは、減っていく。自分が人から評価されたい、認められたい、イエス様抜きの自分の喜びを求める心が減っていく。

それがクリスチャン1人1人に、全員に共通に与えられた召しの本質ではないでしょうか。イエスの喜びを自分の喜びとし、イエスのために生きていくこと。

イエスの友であり続ける

ヨハネは、自分は花婿イエス様の友であると言いました。やがてイエス様は自分の弟子達の事も友とよんでください。ヨハネ15章では、イエス様から友と呼ばれる人はどんな人だったか。それはイエス様の命じることを行う人であり、同時に、イエス様がこれから何をするかを知っている人の事だ。そしてその中で仰ったのです。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」友とは、自分の友のためにいのちを捨てる。友が栄えるために、自分が喜んで衰える。でも、まず何よりもイエス様が、私達の友として、私達のために命を捨ててくれたのではなかったでしょうか。

それを思い出すことが、私達が自分のためではなく、キリストのために生きたいと思うために必要なのです。あなたがイエス様のために生きるよりも前に、イエス様があなたのために生きてくれた。あなたがどんな境遇でも神の喜びで満たされる、そんないのちに栄えるために、イエス様がまず衰えてくれた。神のため生きるあなたを見つけた時、イエス様はあなたを喜んでくれる。この人のために衰えて良かった。

衰えることで研ぎ澄まされていく

私達は、自分が物事の中心にいて、忙しく動き回っていた時には、気づけない事に気づけるのかもしれません。他の人の活躍を、喜べる自分になっていける。その人を通して、神様がなさりたいことが進められているのだから。自分の手から離れて行く、人の成長を寂しい以上に、神様に感謝できる自分を見つけられる。そして、衰えていって、自分ができる事がどんどん減っていく事で、研ぎ澄まされるように祈りが増えていくとしたらそれは感謝な事です。そして、自分に起きたものではない、誰かの身に起きた事に、イエス様が喜んでおられると、喜びの声を聞き取って共に喜ぶことができるなら幸いです。

この前の勇人君の献身の証が終わった時、会衆席に戻っていく彼に、いつまでも鳴りやまない拍手がありました。終わった後、高齢の方が、涙ぐみながら、良かった良かったと。ずっと祈り続けてきたから。

私もホームレス伝道で出会った、増田さんという高齢の方に、いつも祈られてきました。毎朝新宿の、高架下で、人がまだ動き出さないうちに、増田さんは、外に備えた寝床から起き上がります。そして、幹君が今日も神学校の勉強を頑張れるようにと、良き働きができるようにと祈ってるんだと、神学校に行って久しぶりにあった時に言ってくれました。

私も38です。今年の花粉症は本当にひどくて、基礎免疫力が落ちてるなあと感じます。健康に気を遣いながら、5年後は、43か、その間にどんな事ができるだろうか。でも少しずつ私も、神様に変えていただき、自分だけでなく、周りが、豊かに神様に用いられていくことを、喜べる人になりたい。そして、人からほめられなくても、目立たなくても、花婿の喜ぶ声を聞き取って、召しに忠実に生きていきたい。そう祈れる人になりたいと思うのです。(終わり)