マタイ19章16~30節

何をいただけるでしょうか(2023年12月3日)

イエス様のまなざし

 先週、私達は、富める青年の物語を見てまいりました。永遠のいのちを得るためにはどんな良い事をすれば良いでしょうか、という質問を、青年はイエス様にぶつけたのです。しかし、彼の内には、救いを自分で獲得できるほどに私は良い人間になれるという思い込みがありました。でも、イエス様は、良い方は神ひとりだけだと。その事を教えるため、主は、彼の中に、どうしても捨てられない富への執着がある事を示された。その結果青年は悲しみながら去っていくのです。

けれど、この時、イエス様は、青年をいつくしまれたと他の福音書には書いてありました。彼の心に、神を愛する事よりも大きな地位を占めている物がある。それを見抜きながらも、でも、いつくしんだ。

真面目で、他の人から見ても救いにふさわしいと思われた立派な青年が、立ち去る。弟子達にとってもショッキングだったのでしょう。財産は祝福とみなされていましたから、金持ちが救われる事は難しいというイエス様の言葉にも驚いた。25節で弟子達は言いました。「それでは誰が救われることができるでしょう。」

26節でイエス様は、じっと彼らを見たとあります。あの青年同様、弟子達がイエス様のまなざしにされされた。そして仰ったのです。「それは人にはできない事ですが、神にはどんな事でもできます」

私達はすべてを捨てた

しかし、27節“そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私達はすべてを捨てて、あなたに従ってきました。」”ご覧ください。私達を見てくれとペテロは言った。すでに、すでにイエス様のまなざしに見られている。でも私達を内側を見てほしい、そして、私のこの言葉の正しさを見つけてほしい。私はすべてを捨てて、あなたに従ってきたんだ。

ペテロは、他の弟子達のようには、あの青年が救われないなら誰が救われるのかとは思わなかった。あの青年は、財産を捨てられなかった、私達は、全てを捨ててきたじゃないかと。人にはできない事とイエス様に言われて、彼の献身の思いが傷ついたのかもしれない。イエス様、見てください。ここに、ちゃんと、あなたのために全てを捨てた人間がいます。

何をいただけるでしょうか

その上でペテロは尋ねます、27節後半、「それで、私達は何をいただけるでしょうか」。なぜここで報いを確認したくなったのか。ペテロには、青年が、富を捨て去れと言われた時に浮かべた苦しみの表情がよく分かったのです。そうだ、捨てるという事は苦しいことだった。思い出したのです。家族を、妻をガリラヤに残して、漁師という仕事を捨てて、イエス様との旅を続けてきた。手放すに際して苦しんだものもあれば、最初は、情熱で喜んで捨てられた、でも、時々、ふと、置いてきたものの重さに胸がつぶれる思いにきっとペテロもなった。捨てた物の重みを思った時に、彼は、この時イエス様に尋ねてみたくなったのです。私達は、一体何をいただけるでしょうか。

イエス様の約束

イエス様は28節で答えます。「まことに、あなたがたに言います。」これは確かな約束だと、念を押しながら「人の子がその栄光の座につくとき、その新しい世界で、わたしに従ってきたあなたがたも十二の座について、イスラエルの十二の部族を治めます。」

田舎の漁師ペテロが想像もできないような報いが語られました。自分もまた治める者になる。この事は、黙示録の中にも描写されています。やがて来る新しい天と地、そこにある新しい都エルサレムには、12弟子の名前とイスラエル12部族の名前が刻まれている。細かな事を言えば、この12人のうち1人は主を裏切ったユダではなく、後に選ばれたマッテヤでありましょう。また、イスラエル12部族とは、おそらくイスラエル民族を越えたあらゆる神の民の事を指す。やがてくる世界で、ペテロ達は特別な地位にいる。それは、彼らが、イエス様から28節でわたしに従ってきたと呼ばれる存在だから。

イエス様は、ペテロが自分に従ってきてくれたと、彼の献身をまず認めてくださったのです。あなたは自分と苦しみを共にしてくれた人達だ。だから、自分が死からよみがえり栄光の座につく時が来たら、あなたは私とその栄光をも共にするのだ。

1人1人の献身を見てくださる

このようにイエス様は、従った者への報いを用意しておられる方です。私達に対しても

29節「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」永遠のいのちは等しく私達にに与えられる。同時に、私達がイエス様のために捨てたものに応じて、その百倍を受けとる。そこには報いの違いが存在する。

それは1人1人の私達が何を捨てたかを主がちゃんと見てくれているという事。捨てた時の心の苦しみがあれば、労ってくれるという事です。

ある人にとっては、信仰に入るという事は、まさに家族との縁を切れる事であったでしょう。私も、イエス様を信じた事を未信者の親に言った時、父親から勘当も覚悟するようにと言われました。実際には縁は切れる事はありませんでしたが、でも、信仰という物が親子の中に入ってきたために、苦しむ両親を見るのは辛かった。それでも、イエス様を選ぶ。それは私の気持ちとしては、家族を後ろに残しイエス様についていくことであった。あの葛藤、あの苦しみをちゃんと主は報いてくださる。

私達が主のために、払うあらゆる犠牲。主のために生きなければ、手に入ったかもしれない色んな可能性、主のために使うエネルギーを、仕事に使えばどうだったか。パウロが手紙で言うように、キリストの素晴らしさを思えば、そんなものはちりあくたと思える。でも、時に、私達は弱くなる。ふと、捧げてきたもの、捨てたものの重みに心が痛み、聞いてみたくなる。私は何をいただけるでしょうか。でも、主は、ペテロに答えてくれたように、私達に言ってくれるんです。あなたの歩みにはちゃんと報いがあるよと。

先にいる多くの者が後になる

しかし、30節「しかも先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります」この言葉は、来週見る20章16節でもう一度出てまいります。ですので、来週も扱うのですが、ここには、先の人と後の人という比較があります。それが逆転することがある。でも、神に従う報いについて、比較を最初に持ち出したのは、ペテロの方です。「ご覧ください。私達は、全てを捨てて従ってきました」。あの青年と違って。自分はあの青年より先にいる。そんな比較によって得る優越感に、イエス様は警告をなさるのです。

私達は、報いがあるという確かな約束で、励ましを受けるべきであって、私はあの人よりも捨てたという優越感で慰めを受けてはいけないということです。逆に言えば、私はあの人よりも捨てられていないと、劣等感を抱く必要もない。あの人は自分よりも、先を行っている、自分は後ろだ、だからいただく報いは少ないと思うべきではない。

私達は気になるのです。人の捨て方が、捧げ方が、自分は同じようにはできない。あの人は家庭を開放して集会をしていた、自分の家は人を呼んだ事もない。あの人は信じる時家族を捨ててきた、でも私の親クリスチャンだし。あの人は仕事も捨てて献身した、私は違う。献身しても、あの牧師はあれもしてこれもしていつ休んでるんだろうと人から言われるとですよ、自分の献身の度合、捨て方が足りないと言われていると思う。

捨てるとは何を意味するのか

でも、そもそも、今日の箇所、捨てるというは、何を意味するのか。全てを捨てたと言ったペテロには、でも、まだカペナウムに家がありました。まだあれはペテロの物です。彼の自由にできたのです。そこには姑もいた。彼には奥さんがいた。縁を切っていないんです。でも、この時イエス様は、それじゃあ全てと捨てたとは言えないとは仰らなかった。

イエス様を軸に据える

考えてみると、前回、青年にとって、富とは、神を愛する妨げになっていた。その執着を断ち切りなさいと主は言われた。全ての人が財産を売り払うようにと言われている訳ではないとも話しました。イエス様の弟子の中には、自分達の財産でイエス様一行の旅を支援する裕福な人もいたと福音書にはある。そんな人は中途半端な弟子だとはイエス様は一切言わなかった。それぞれ主に言われている従い方があるだけです。

イエス様は、私達の全てを、文字通り切り離すような捨て方を求めているというよりも、そこにある執着を捨て去るようにと言われる。そして、単にそれらを単に捨てるというよりも、神のために用いる事を求められるのです。よく見ると、青年は、21節で、財産をただ売り払うのではなく、それを貧しい人に施しなさいと、用い方を言われている。

全てを捨てる、それは自分のあらゆるものを、神を軸に新しくとらえなおす事です。それは私達に等しくできる事です。自分の物だと握りしめる執着をひとつひとつ離していく。

新しくとらえなおされたものとして

なら、私達のもとにまだ実際にはあったとしても、それは神の前にもう捨てたものです。私のものから、神のものになった。すると、私達は、自分の捨てたものが、神からの祝福として新しく眺めることができる。

それぞれの捨て方がある

そして、主が求める方法で、私達は、全てのものを用いていけば良いのです。主が家を開放しなさいと言われたら喜んで開放したらいい。感謝を神に表したいならば献金すればいい。人の目ではなく、神様から背中を押されたら、自分の時間を捧げればいい。そこには、わたしはあの人以上に、これを捨てた、あれを捧げた、そういう事ではない。それぞれの主によっての用られ方があるのです。従い方があるのです。

献身もそう、献身者が起こされるのは素晴らしい事だと思う。牧会祈祷の中で祈っています。私自身が、母教会で毎週そうやって祈ってもらった。それが、いつも、献身の思いを抱く自分を支えてくれた。だから今もしている。でも、献身とは召される物ですから。そして直接献身だけが献身者ではない。

地上の生涯の用い方を、ある人は牧師という務めに召されている。でも、昔ある社会人の友達が言ったんです。幹君は献身したいって言うけど、私はむしろ、社会で働くクリスチャンこそ、宣教の最前線だと思っている、いつも明日からの職場に遣わされている気持ちだと。その事は幹君にも知ってほしいと。

大切なのは、捨て方じゃない。私達が、自分を主のために、捨て、主が望まれるように生きていく。その時に百倍の報いを受けると主は約束してくれる。

自分を捨てることができない

自分を主のために捨てる。しかし、「全てを捨てた」と言ったペテロは、やがてイエスから、あなたは私を否定すると言われる。現にあのゲツセマネの夜で、イエス様を裏切る。イエス様のために自分はこれだけやってきた。家も開放した。妻や家族も後に残し、仕事も辞めた。全部捨てた。献身した。でも、自分は捨てていなかった。私はすべてを捨てました。あの青年よりも、彼のこの言葉は、やがて、グラグラと揺らいでいくんです。空しくなっていくんです。ゲツセマネの夜に。ご覧ください、全てを捨てた私をちゃんと見てください。ああ、あの日、自信満々に言った私の、はりぼての献身を主は見ておられたのだ。

確かに母教会で、私は、献身したい献身したいといつも言っていました。召されている確信は確かにありました。自分の神様への愛を疑っていませんでした。私は母教会の他の青年達よりも、イエス様を愛している。全てを捨てることができると。

でも、あの頃から10年経った、捨てられないんだと思うのです。あまりにも自分の事が大切で、自分はどうしても捨てられない。自分の願いと、主がしなさいと仰る事が、たまたま同じだったらできただけという事が沢山あった。でも違った時に、どれだけ抵抗し、自分を捨てる事を拒んだか。

神にはどんな事もできる

しかし、イエス様は今日の箇所、ペテロが話し出す前、じっと弟子達を見つめていた。ペテロの中にある、傲慢さと、これから彼が語る言葉のむなしさも全部見抜いた。でも、仰った。26節「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」。

ペテロを見る主のまなざしには、あの青年に対するのと同じいつくしみがあったのです。ペテロ、あなたがこの後言う献身の言葉のむなしさなんて知っている。あなたはまだ自分を捨てられない。でも、私は、あなたのその言葉を決して否定しない。私はちゃんと受け止めてあげる。受け入れてあげる。私が自分の手で、あなたのその言葉をむなしくさせないようにするから。私が捨てさせてあげる。あなたの献身の言葉、それは人にはできないことだ、しかし、私にはどんな事でもできる。

そして本当、ペテロは、やがて、殉教するようになる。財産を捨てるのと同じで、誰もが死ぬ必要はない。でも、主がいのちをそのように用いなさいとペテロに言った時、彼は従うことができた。

新しい創造が始まっている

私達を主は作り変えていってくださっている。はりぼての献身を、主のためにいのちを用いる人へと変えてくれるのです。28節「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座につくとき、その新しい世界で、わたしに従ってきたあなたがたも十二の座について、イスラエルの十二の部族を治めます」新しい世界とは、新しく生まれるという意味の言葉です。イエス・キリストを信じる、私達のうちに、新しい世界が始まっている。神は無から最初の世界を作った。私のうちに何一つなくても神は私のうちに新しいものを作り出せる。神は言葉によって初めの世界を作った。今日も、キリストは言葉によって私達を新しくしてくれる。すこしずつ、私達の献身は、本物になっていく。神はあなたを捨てさせてくださる。それ自体が、私達が受けるこの地上の祝福であります。

どのような道に主から召されていても、それぞれの道が献身の道です。全てを自分を捨てさせてもらえる旅路です。私達に用意されている報いが、必ずある。それを楽しみに、私達は、主に従っていきましょう。