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Ⅰテサロニケ2章13~16節
あなたがたのうちに働くことば(2025年7月6日)
テサロニケ教会の魂の求め
使徒の働きを見ると、テサロニケ教会の多くはギリシャ人、しかも、もとはユダヤ教の会堂に集っていた人々だったようです。なぜ、ギリシャ人が異国の神に関心を持ったのか。ギリシャは古来より哲学が盛んだった地域ですが、パウロからアテネの人達が宗教心の熱い人々と呼ばれたように、哲学では解消できない神へのあこがれがありました。しかし、彼ら自身のギリシャ神話はお話としては面白くても、神々はあまりに人間臭く、最高神ゼウスが率先して不倫してしまうような有様でした。
そんな神々に満足できないテサロニケの一部の人達は、ユダヤ人の旧約聖書にある聖い神に憧れました。会堂の礼拝では、旧約聖書から説教がなされ、通い続けていくうちに難しかった聖書が分かるようになってきました。でも、そこで語られるのは、イスラエルを愛している神様でした。異邦人である自分は、割礼を受けてユダヤ人になってはじめて神に受け入れてもらえるというのが彼らが聞くメッセージだったのです。いわばお客様として、自分に向けてではない神の言葉を聞くしかなかったギリシャ人達に、ある時会堂に、パウロという人が現れた。そして、全く聞いたことのない事を語ってくれた。イエス・キリストを、自分達に向けて紹介してくれる言葉を聞いたのです。ついに、彼らの魂が求めていたものと出会えたのです。
パウロの言葉が神の言葉として聞かれる
そんな出会いについての、パウロの側からの言葉が13節です。「こういうわけで、私達もまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私達から聞いた神のことばを受けた時、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」
私達から聞いた神のことば、ですので、これは、パウロの説教の事です。この当時、新約聖書はまだありませんから、イエス様の救いのみわざについては、書かれた言葉ではなく、伝道者が宣べ伝える言葉によって人々に伝えられていったのです。そのように人によって語られていった救いのメッセージ、それ自体が神のことばであると、パウロだけでなく使徒の働きの著者ルカもまた信じていました。そしてテサロニケ教会も、神のことばとしてそれを受け入れたのです。
説教は神のことば
では、新約聖書がある今でも、説教とは神のことばと呼ぶことができるのでしょうか。そう、パウロの言葉を13節の借りれば、事実その通り神のことばなのです。
でも、この言葉って、取りようによってはとても危なく聞こえる事は分かっています。
うちの母親もHPで後から説教聞いてますが、自分の言葉が神の言葉なんて、人に迷惑かけるのもいい加減にして三重に帰って来なさいと言うかもしれません。後で言いますが、私の言葉が、一語一句まるで聖書のように神の言葉であるとか、私がここで語る事は全部どんな突飛な提案でも受け入れなさいと言う訳全然ありません。
でも、プロテスタントは、礼拝で説教を大事にしてきました。それは、ここでは人の言葉を通して神が聞く人の心に、お語りになる、私達の礼拝する神と出会うことができる時だと信じたからです。カトリックはちっと違います。礼拝の中心は、私達で言う聖餐式です。毎回必ずあるのです。説教は、おまけです。5分とかです。それくらいの方がいいなあと思った方はいないと思いますが。
一方、私達は、講壇に人が立たない礼拝はありません。無牧の教会では、役員の方が必死に毎週の説教者を探して、今日も、みことばが語られたと感謝するんです。そこまで大変でも、単に聖書朗読だけあればいい。説教集をプリントして皆に配ればいいという発想にはならないんですよね。
私思うのです。説教者こそ、自分の説教を通して神が語るという事を信じなければいけない。私が教えを乞うている先輩の説教者達は例外なくその事を信じているんです。そんな尊いわざだからこそもっと成長したいと、何歳になっても研鑽を積むし、毎週毎週1つ1つの単語に納得できるまで練り上げるんだ。だから、今日、神に勇気づけられて言い切りたい。毎週この場所で、神は語っている。
聖書を語る説教
もちろん、それほど教会にとって大切なものだからこそ、説教が語るべき内容は決まっています。今日の13節で「あなたがたが、私達から聞いた神のことばを受けた時」とあります、この受けたというのは、ある人から別の人に手渡されるという特殊な言葉で、Ⅰコリント15章3節以下で使われている言葉です。開いてみましょう。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書に書かれてある通りに、私達の罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に書いてあるとおりに3日目によみがえられたこと、またケファに現れ、それから12弟子に現れたことです。」
パウロからテサロニケ教会が受けた神のことばも、このイエス・キリストの死と復活に表された福音に他なりません。それは、パウロ自身も受けたものであって、自分で発見したり、考え出したものではないのです。
だからこの講壇では、説教者の自分の考え講演会は許されないのです。説教において語られるのは、次々と受け継がれゆくべきことだけなのであります。説教とはあくまで福音を、聖書を語るのです。それ自体は説教者の新発見は何もない。
新しく語りなおされるのを待つ言葉
でも、説教とはいつも、新しい言葉で語られるものです。パウロが、自分も受けたこととして福音を紹介している先ほどのⅠコリント15章は、そのまま次第に、8節以降「そして最後に月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました」と、パウロは自分に現れた主の恵みを語っていきます。人から受け継いだ事を福音を語る時、自分のことと切り離して語ることは彼にはできなかったのであります。
説教とは、だから、いつも、私自身の事として語られるものです。この説教者自身がどうこのみことばを受け取ったかが、説教の言葉に現れてくる。だから、それはいつも新しい言葉になる。
そして、聴衆も、自分の事としてその説教を受け取ってくれる事を説教者は祈ります。そのために、準備の時に、皆さんの顔を思い浮かべながら、教会を思いながら、祈りながらどうしたら皆さんに届く言葉になるのかを探し求めながら、与えられるのをひたすら待ちます。今日と同じ私達は二度とないから、言葉も変わる。だから、聖書とは、礼拝の中で新しく語り直されるのを待っている言葉だ、そんな風に言われることがあります。
聞いてくれた感謝
でも、今日の皆さんの事を私は当然まだ全部知らない。その胸のうちに浮かんでいるものが何か分からない。牧師としての力不足を覚えるのです。私の敬愛する鳩ケ谷の大嶋先生が、今でも、自分はお年寄りに届く言葉を言えているのだろうかと最近も仰っていた。説教者は、まだ私の言葉は十分ではないという感覚がなくなる事はないのでしょう。でも、それなのに、時々、今の私に必要な言葉でしたと仰っていただくと、私自身が驚くのです。そして私が知らなかったその人の先週と説教がどんな風に結びついたかをお聞きして、ああ、神様の力だいつもと思うのです。
そして、説教に期待してくれている皆さんがいることに、驚くんです。
パウロも言うんです。「こういうわけで、私達もまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私達から聞いた神のことばを受けた時、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。」事実その通り神のことばなんだけれど、受け入れてもらえないかもしれないという恐怖はいつもあったのです。語って語って何度も拒絶された経験をパウロはしたから。だから、今、テサロニケ教会の存在を絶えず、神に感謝してもまだ足りない。
それは、パウロの同労者達も同じでした。テサロニケ教会は、パウロの説教だけじゃなく、「あなたがたが、私達から聞いた神のことばを受けた時」とあるように、シルワノやテモテの説教も同じように受け入れてくれたのです。パウロに劣る、説教の実力だったかもしれない。人格的にも欠けがあったかもしれない。でも、パウロの説教しか受け入れない教会ではなかった。
私も、先週の自分の失敗を覚えながら、もっとこう導けたら良かったんじゃないか。という気持ちを抱えて日曜日の朝を迎える事があります。そんな時は、朝、今日の説教が神様からいただいた言葉だと信じようと祈りで気持ちを作っていく。でも、礼拝前の執事部長のMTGの祈りで、皆さん、祈ってくれるんです。礼拝で、今週一週間私達を励ます言葉を神様が語ってくださいますように。最近、ちょっと感極まって、牧師室にすっと入って、泣きそうになっていました。
パウロもそうです、私もそうです。説教者にとってこれほど嬉しい事はない。忍耐してくださって、欠けのある私だけど、恵みを受け取ろうとしてくださっている、そんな教会がある。
語るものは、迫害を受ける
だから、神の言葉を取り次ぐものとして、確信をもって今日皆さんに伝えたい。13節続き、「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」礼拝で聞いた言葉は、ここで終わらない。続けて、あなたのうちに働きつづけていく力を持っている。
しかし、その結果、テサロニケ教会は14節「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣うものとなりました。彼らがユダヤ人に苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。」彼らは、他の教会がそうであったように、信仰ゆえに、苦しめられる存在になった。なぜか、彼らも、神のことばを他の人に語っていく者になったからです。
15節「ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私達を迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。彼らは、異邦人たちが救われるように私達が語るのを妨げ、こうしていつも、自分達の罪が満ちるにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。」イエス様も預言者達も、パウロ達も、福音をどんな風に伝えたでしょうか。私自身が信じることとして語ったのです。私を隠さなかった。だから迫害されました。
この前、教会に、郵送物が届きました。封を空けると、怪しい、世の終わりについての教えとかいう内容の本でした。送った人がクリスチャンなのかどうなのかも良く分かりませんが、こういう伝え方は、まともに取り合ってもらえず、その本捨てといてくださいと言われる代わりに、迫害を受ける事も少ないでしょう。差し出し人の住所まで行って、わざわざ文句言う暇な人はいない。
ですが、今私が、皆さんの前で、私の信じる事として聖書を語るように、皆さんが誰かに福音を伝える時、皆さんの存在はその人から隠せないのです。説教の言葉と皆さんの個人伝道の言葉とはとても似ている。それは、私が信じる事として話さなければ、私という存在をちゃんと通した言葉でなければ、説得力なんてないということです。だから私自身がどのようイエス様と出会ったか、福音を紹介する時に言わずになんていられない。だから、あなたが迫害されるんです。そんな風に自分とむすびついて聖書を紹介するから、それを否定されたり、拒絶されたら、自分の心もまた、傷つくのです。
神は私を通して聖書を語ってほしい
しかし、説教者という人種は知っているんです。神の言葉は、私を通して語られたいと願っているんです。そして、その人のためを思って祈り、どんな風にして相手に届くように語れるか、真剣に祈る事、それは愛の作業です。愛の言葉として、血の通った言葉として聖書は新しい言葉で、あなたによって誰かに語られるのを待っているのです。
そして、1人1人に神様は味わってほしいのです。こんな私の語る福音を、あの人が、神が私を通して語ってくれたものとして受け入れてくれたという驚きをです。
伝えるからはじめて拒絶されるのであって、伝えないと何も起こらない。そして、あの人が受け入れてくれた。その時、その感謝は絶えず、私の中で消えずに一生続くものになるでしょう。
神のことばが働き続ける
「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」パウロは、自分の語った言葉が、語り終えた後も、教会の中で残り続けていった事を実感しました。
ある先生のことばです。牧師の働きは、色々ありますが、エペソ書の聖徒達を整えて奉仕の働きをさせ、という要約される。様々な牧会はあるけれど、整えていくのはまず説教である。
今日のことばが、皆さんを再び、宣教へと押し出していくことを私は信じたい。今日ここで語られた言葉が、皆さんを通して、今週の世界へと飛び出していく。皆さんこそが宣教の最前線であり、皆さんの直面する宣教の大変さは私の想像を越えていると思う。その中には、牧師として知らなければいけないはずの、私が知らない苦しみだってあると思う。しかし、その未熟な、皆さんを想像し切れない私の言葉を、神が今日も用いてくださることを私自身信じたい。
そして、来週も、神のことばが語られる事を期待してここに来たい。牧会祈祷の終わりに共に祈っています。「主よ、お語りください、私達は聞きます」そのようにして、教会は前に進んでいくのです。祈ります。(終わり)