マタイ12章22節から32節(11月27日)

許されない罪

抑えてしまっている自分

 昨年の県南3市のクリスマスコンサートの時にですね、罪友教会の進藤龍也先生達と会場の飾りつけをしたんです。福音自由からは、一番若手の私と、軽トラを持っている長老格の松村先生が参加して、後はほぼ罪友教会の方々。進藤先生は元ヤクザで、刑務所伝道をしてきた人です。パワフルなんです。集まった方々も、ハーレーに乗って、革ジャンの人もいました。そんな人達がみんなで、かわいらしいツリーを組み立てる。プレゼントの箱の飾りをどこに置くかで議論する。そのギャップ。でも、作業を始める時に、全員で輪になって、実に熱い祈りをなさっていたんですね。キリストのために!アーメン、今日、救いが起きます!赦しがあります。アーメン、悪魔は私達に近づけない!

帰り道、松村先生と、「あの祈り良かったね」と話していました。何だか、自分は信仰を、あんな風に素直に表現できていないなと思いました。私の罪が許された、それは、私にとっても、凄いことなのはずなのに。そんな1年前の事を思い出すんです。

ゆるされない罪

今日の箇所31節でイエス様は確かに、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」と言われます。どんな罪もです。しかしたった1つ、ゆるされない罪があると、イエス様は不思議な事を仰る。それは31節では「御霊に対する冒涜」32節では「聖霊に逆らうことを言う」と言われています。

同じ32節では、「人の子、イエス様に逆らう言葉さえも赦されている」のにでも、聖霊には対して赦されない。でも、それほどの事なのに、私達はあまりこの罪を良く知らないのではないかと思うのです。

悪霊につかれた人

この事を念頭に置きながら、一度、話を今日の箇所冒頭にさかのぼります。22節「そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒されたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。」この人は悪霊につかれていました。悪霊という言葉は、私達を縛り付ける抗いがたい力を意味します。そう言うと、悪霊の働きが少し身近に感じるのではないでしょうか。

神をほめたたえることができない

今日、私達を縛り付けるようとするものがある気がするのです。この人は悪い力によって口を閉ざされていた。私達も口を閉ざされているのではないかと思います。何も話せないのではない。私達の多くは実に良くしゃべっている。これはアメリカの研究なんですが、一日に一体どれくらいの種類の単語を話しているか、男性は7000、女性はその3倍だそうです。でも、私達はそんなに話しているのに、大事な言葉が出てこない。神をほめたたえる言葉が出てこないんです。「神様ってすごいね、今日も感謝だね」それが日常で出ない。何か、私達にそれを言わせまいとする力が働いているのではないか。

神の働きを見ることができない

あるいは、この箇所、パリサイ人も、別の力に支配されていたのかもしれません。イエス様がこの人を癒して、群衆は驚きます。しかし24節、“これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」”明らかな奇跡を見ても、イエスはキリストであるはずない。こうに違いないという自分の救い主に対する先入観が、凝り固まった自分の物の見方が、彼らの目を見えなくさせていたのではないか。

自分の視点しか見えない

どうして、私達は自分の視点しか物事を見る角度はないと思い込むのでしょうか。そのせいで、随分と損をしている。例えば、私は、他の方にですね「先生、こういう事しませんか」と提案をいただくとき、最初、「え?」と思ってしまうことがあります。それは、自分の予定にはなかったのになあと、というのが先に来る。でも、いざやってみると、ああ、これは御心だなあと思う。自分が一番恵まれちゃったりする。でも、最初気乗りしなかった自分の心を知ってるから、他の人と同じように厚かましく喜んでいいのかと思ってしまう。だったら、最初から、もっと神の御心にオープンでいればいいのにといつも思う。私もまた縛られている気がします。

イエス様の反論

そんな、イエス様の働きを認めないパリサイ人に対して、イエス様は、反論なさいます。25節から27節で言われているのは、もし自分がサタンの力によって、悪霊を追い出していたなら、サタンの国は仲間割れをしている事になる、そんなに悪魔は馬鹿ではない。そして、あなた達パリサイ人の仲間だって、悪霊を追い出しているではないか。その人達に私と同じ事をもし言ったなら、彼らはあなた達に反論するだろう。

神の御霊が自由にする

その結果、動かしがたい事実として主が示されたのは、28節にあるとおり、「キリストが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているということ。」この聖霊については、パウロがローマ8章15節で言うんです。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです」あるいは、ガラテヤ5章1節では「キリストは、自由を得されるために私達を解放してくださいました」つまり、キリストは神の御霊を通して、あなたを縛り付ける力の支配から自由にする。

ゆえに、聖霊に逆らう罪とは、そんな神の働きが今すでにそこにあるのに、それを拒絶することです。縛られたままでいたいと思うことです。

アドベント

今日からアドベントに入りました。アドベントとは、訪れる、という意味です。イエス様の誕生という訪れを待ち望む季節。祈祷会で共に学んでいるイザヤの預言から約700年、イスラエルという神の民はずっと待っていたのです。それを、私達はたった約4週間ですけれども、毎年追体験するんです。クリスマスに洗礼を控えている人にとっては、自分にとって特別な日、喜びの日が近づいてくる、それを待ち望むまさに今この時期でしょう。そうですよね。私達は、待つことを経験する、待つ時間が、それが訪れた時の喜びをひとしおにする。

もうすでに訪れているのに

しかし、今日、主は待ち望んでいるものがもう来ていると仰る。「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」

神の国とは、神の支配という意味です。それはもう、あなたがたのところに来ている。悪霊の支配ではなく、神の支配のもとに信じた時すでにあなたは入った。29節「まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。」私という家を支配する力から奪いとるために、もうサタンは縛り上げられたのです。イエス様が来られ、神の国、神の支配が広がってから、そしてあの十字架の上で、イエス様は勝利なさった。だから、悪魔は私達に近づけない。私達を縛り付ける何物をも、本当は実は存在しない。私達は自由なんです。

なのに、どうして、再び悪霊の奴隷というくびきを、自分から求めるように、神の力から背を向けるのか。

ここで言われている罪とは、神の働きを知らずに逆らう事ではありません。それは許される罪です。Ⅰテモテ1:13節でパウロがかつて神を冒涜し迫害する者だった事について、知らないでしたことだから憐れみを受けたと言っているからです。

自分を保っていたい

つまり、パリサイ人は、この時、神の働きを知りながら拒むのです。気づいているのに、無視するのです。縛られていないのに、縛られようとするのです。なぜでしょうか。

今日の箇所、悪霊につかれた人をイエス様がいやしたのを見た群衆は23節で驚いたとあります。この言葉は、熱狂する、我を忘れるという意味です。神の働きは、我を忘れるほどの喜びをもって群衆を巻き込み、「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか」という開かれた視点へと彼らを導いた。

けれど、それに対してパリサイ人は、そんな簡単に我、自分というものは忘れてはいけないと思ったんです。冷静であるべきだと思った。自分というものを、神の影響力から守る必要がある。自分の考えを、自分の生活を、自分の日常を、そんな簡単に揺さぶられては困るのです。自分の予定にはない事はしたくない。

だから、私達は日常の中で、「神様ってすごいね」言わない。私の日常に神という他人が入ってきて、私の心が乱されたくない。我を忘れるなんて、厄介なんです。怖いんです。どんな自分になってしまうかが怖い。だから、神に対してそれなりの対応をする。

でも、別に冷めきってはいないと思う。こうして、ちゃんと教会に来てる、説教を聞いている。祈っている。別に神様を信じていないわけではない。ちょっと、冷静になっているんです。あの人達みたいに熱くなる必要なんてない。私にとって必要十分な主との関係だから。

私と共に集めない者は散らす者

しかし、主は言われるのです。30節「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。」あなたは、わたしの味方なのかどうなのか。神の働きを認めるのか、どうなのか。今、主は働いている。聖霊のみわざが起こり、この場所で、人が救われている。もし、我を忘れる神との出会いが、本当は存在するんだと実は気づきはじめているなら、もし、本当は、あなたの口は神への賛美へとすでに今開かれているんだとしたら、もし、あなたの心に聖霊が働き始めている事に気づいているのなら、なぜあなたは傍観者でいるのか。受け入れないのか。わたしとともに集めない者は散らしている。

自分に縛られ、自分を破壊する

私達は、もう本当は自由なんです。何でそんなに不自由そうに、苦しそうにするんですか。そのくせ、どうして、そこまで、自分を保っていたいのですか。自分に縛られたいのですか。でも、それは悪霊にまた縛られようとしているだけです。

そのまま突き進めば、今日の悪霊につかれた人のように、目が見えなくなるんです。神の恵みはますます見えなくなる。今、神以外の別の喜びがあるからいいのかもしれない、毎日が充実しているから良いのかもしれない。でも、他の喜びはいつか消えます、その時神の恵みが見えなくなっていたらどうするのですか。ますます口が聞けなくなる。神をほめたたえる言葉が出てこない。今日の口の聞こえないというギリシャ語は、耳が聞こえないという意味もあります。ますます神の声も耳に入ってこなくなり、結果、目も耳も口も聞こえないこの人のように、何もかもから孤立した、ひとりぼっちの場所に行ってしまう。それは、結局は自分を失うことではないですか。

失望の中に

それでも、なお神の働きを追い出すのですか。そして今度は、失望の中に自分を縛り付けさえするのですか。もう神は自分の人生に良くしてくれるはずがないと思おうとする。もう俺は変われないと思いたい。でも本当は、あなたがここまで共に歩んできた神は、自分をなお変えてくださると魂は知っているんです。あなたが、そう思いたくないのです。変わりたくないのです。変わるのは、不安だからです。失望の心地よさに縛られていたい。

神の働きだけは否定してはいけない

 しかし、主は、それだけは私達に許すわけにはいかないのです。

私達は最初、許されない罪があるとはどういう事なのかと思いました。主イエスの赦しに限界があるのかと。違うのです。ここで主は、私達を激しく招いているのです。あなたの心が神の力に気づいているなら、ちゃんと認めるんだ。そのためなら、32節「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。」どんな事を私に対して言ってもいい。どんなに私を罵ってもいい。31節「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」あなたの全ての罪を、過去も現在も未来も、赦す用意が私にはある。あなたはもう自由だ。いつだってあなたは、私を認めて生きていく事ができる。頭で分かっているだろう、心は気づいているだろう、なら、あなたに働く聖霊のみわざを絶対に否定してはいけない。

神の支配を認めよう

聖霊は今日も力強くこの場所で働いている。この前、ある方に言われたんです。先生、いつも牧会祈祷で、蕨教会の交わりが、この世には他にどこにもない暖かな交わりになりますようにと祈りますよね。いつもですよね。何をきれいごとをと、前は思っていました。でも今は本当にそうだな、暖かいなと思いますと。

でも、その時、私の方は、そうですよ、確かに主が今働いてくださっているんですよと言う事を、とっさに控えてしまった。自分が口にしようと思った言葉の確信のこもりようが、怖かった。その人を励ましに行ったつもりだったのにです。

今、私は、この教会における神の働きを信じます。私の日々に、働いてくれる神の働きに気づいている。それを認めるのは怖い。そう思えなくなるかもしれないと思うと、きれいごとのままで終わらせた方が楽です。教会だけでなく、自分自身が、どんな風に神が変えてゆくのか、それは自分の予定しているような姿ではきっとないと思うと不安です。でも、事実として、今、聖霊のみわざにこうして気づいているのなら、私もまた今日、この神に降参したいと思います。皆さんも一緒に、どうしてか良く分からないほどに、保とうと思っていた自分を、我を、忘れて、神の支配を認めましょう。そして、主が私に成してくださる事を楽しみながら、心を主に明け渡していきたい。

私という思い込みの視野を超えて、神とは素晴らしいお方です。私達は口を賛美へと開かせていただき、言いたいのです。この人こそダビデの子だと、今まで抑えていた自分から、自由にされて心から言いたいのです。私の魂が、そう気づいているのなら。