マタイ24章32~51節

消え去らないもの(2024/7/21)

すべては過ぎ去っていく

今日主は35節でおっしゃる「天地は消え去ります。」この消え去るというギリシャ語は、過ぎ去っていくという意味です。この天地にあるすべてのものは、過ぎ去っていくのだというのです。

時々、私達夫婦は、携帯に保存された写真を夜2人で見返すんです。1年前って、子供たちってこんなだったんだね。子どもの成長はびっくりするほどです。そして子どもほどではありませんが、2年前、3年前と遡っていくと順調に私も今おじさんになっているのが分かる。私の親も少し年取ったなと感じる。写真を見返すと良くわかりますね。確かに、過ぎ去っていくんです。 

滅びという終わり

でも、慌ただしい日常の中にいるときはそう思いません。いつまでもこの日々が変わらずに続いていくように感じます。これからもずっと子供たちは朝バタバタと支度をし幼稚園に行き、帰ってきたらパパと私のところに来てくれると錯覚する。実家の両親はこれからも元気だろうと思う。だから油断して1回1回の機会を大切にできなかったりする。また次があるからと。

でも時は過ぎ去っていく。写真に移る私達の姿は戻ってきません。そしてその流れには終わりというものが存在する。地上の人生も一歩一歩終わりに向かい、残された時間は刻一刻と減っている。そして、35節の「天地は消え去ります。」これは前の版の訳では「天地は滅びます」だった。滅びという言葉の方が、厳粛な気持ちになります。あなたにもいつか滅びが来る。あなたの滅びは刻一刻と近づいている。でもだとしても、まだ大丈夫。滅びについて、向き合う事を避けるうちに、次第とそんなものなど来ないだろうと現実感がなくなる。

ノアの日のように

はるか昔ノアの時代、洪水で滅びた人々も同じように考えていたのです。37節「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。」あの時、神様は悪に染まった人類をノアの家族以外、洪水で滅ぼそうと決めた。そして、ノアには箱舟を作るようにと命じた。巨大な箱舟を黙々と作り続けるノア、その姿を人々はずっと見ていた。洪水の預言もノアから聞いたでしょう。にも変わらず自分の日常を変えなかったし、ずっと人生は続くと思った。ある日、洪水が来て、すべてをさらっていくまで。

突然の裁き

39節後半「人の子の到来もそのように実現するのです。」イエス様がこの世界に来る。それは人の魂の行く末が決まる厳粛な瞬間です。40節「そのとき、男が2人畑にいると、1人は取られ、1人は残されます。女が2人臼をひいていると1人は取られ、1人は残されます。」これは、パウロがⅠテサロニケ4章で言っている出来事です。主ご自身が天から下って再臨される、すでに死んでいるクリスチャンはよみがえる。それと同時に、その時生きているクリスチャンは地上から取られ、天から下って来られる主と空中でお会いする、そして一緒に地に戻ってくる。

一方でその時、滅びに残される人がいる。一緒に仕事をしている同僚たちの中で、蕨の町で、その時はっきりと誰が救われるかが分かる。そうなってはもう遅いのです。

いつ来るか分からないから

そんな日が突如来る。だから42節「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」

覚えておいてほしい。まだ救いの事について考えなくていい、まだ自分は健康で、人生は長い。死ぬ直前で、クリスチャンになればいい。その時自分の心が神様に対して目を覚ましていればいい。それまではまだ眠っていても大丈夫。でも、いつ、自分のその終わりが来るかは誰にも分らない。もし、泥棒が何時に来るか分かっていれば、確かにその時だけ起きていればいいでしょう。でもそういう訳にもいかない。あなたの魂の行く末が決まる時が突然来た時に、滅びが泥棒のようにあなたを奪っていってほしくないと神は心から願われる。

目を覚まし続けているとは?

またクリスチャンにとっても、はっとするのは、42節の目を覚ましていなさいは、直訳は目を覚まし続けていなさいなんです。イエス様が来るまで、眠ってはいけない。

しかし、じゃあ、目を覚まし続けているというのは、私達にとってどういう生き方なのでしょうか。それは言い換えると、どんな心のあり方で、私達はイエス様の訪れを待てばいいでしょうか。

主人の帰りは遅いと思う事

この後、45節以下で、イエス様は、良いしもべと、悪いしもべの例えを話されます。主人が帰ってきた時に、良いしもべは、主人に命じられたことを忠実に行っていた。46節「主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。」

一方で、48節「しかし彼が悪いしもべで、「主人の帰りは遅くなる」と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたきはじめ、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているならそのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」悪いしもべが帰ってきた主人に見られてしまったのは、仲間達をたたき、自分の勤めを忘れて飲み食いしていた姿でした。そしてそれは「主人の帰りは遅くなる」と彼が油断していたからだと主はおっしゃるのです。それが彼の心の眠りでありました。

主の帰りの近さを意識する

一方、目覚めている心とは、主人の帰りは近い事をいつも意識して生きる事だと言えるでしょう。確かに、これまでも見てきたように36節で「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」再臨の時はイエス様自身さえ知らないのだから、誰にとっても突然来る。でも、それがもう間近に迫っているという事は私達は知ることができるし、主はぜひ知ってほしいと仰るんです。32節「いつじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出てくると、夏が近いことが分かります。」イスラエルの春はあっという間に終わるんだそうです、いちじくの葉が芽吹いてくるとああすぐもう夏だと人々は感じた。夏とは収穫の時期です。33節「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」今月見てきました、この24章のここまで主が言ってきた預言のほとんどは、ある意味で今すでにもう来ている。困難な時代はすでに来ているというしるしを、この世界の中で私達が見つけた時。いよいよイエス様が私達の家の戸口にすでに近づいているとを思っていい。もうすぐ戸をノックする音が聞こえる。その近さを覚えて日々を生きる、それが今日主が目を覚ましていなさいと仰ることです。

主の訪れを待ち望む?

34節「まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。」この言葉を真剣に受けた過去のクリスチャンは、自分が生きるこの時代のうちに主が来ると信じました。そしてそれを待ち望んだのです。マラナ・タ、主よ来てくださいそれが教会の合言葉になりました。

でも、私はそこに準備していてひっかかりました。ここまでこのメッセージを聞かれた皆さんはどうでしょう。早く、主に来てほしいと思うでしょうか。主人が帰って来る時というのはむしろ怖い時な気がします。しもべとしての自分のふるまいを見られてしまう瞬間です。主人からの使命に忠実でいられる自分でしょうか、仲間を打ちたたいていないか。どうぞ早く見てくださいというには自信がありません。そして何よりも、その時人の魂の行く末が決まってしまうのです。あの人の滅びが決まってしまうかもしれない。

そう思うと、むしろ主が来るのが近いという意識は、びくびくした緊張感を私に与えます。戸口でイエス様のノックの音が聞こえないかと。

どのような食卓を生み出すか

しかし、そうではない。それは、今、私達というしもべに主が任されている使命を見るとわかるのです。45節「ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったい誰でしょう。」

私達は今、他の人に食事を振る舞う事を主から任されている。食事を食べると、心配な気持ちも不思議と楽になるものです。自然と、笑い声が生まれます。明るい食卓は、体だけじゃなく、魂にも栄養を与えてくれる。そして緊張がほぐれます。

ある時代のクリスチャンは、主が来た時に、悪いしもべが酒のみと食べたり飲んだりしている姿を見られたようではいけないと、食事の楽しみとは、魂を眠らせてしまうと真剣に考えました。ノアの時代に滅んだ人も、食べたり飲んだりとその生活を表現されているじゃないか。緊張感をなくしてはいけない。あの人の救いも、自分の救いさえも確かではないのにと。でも、そうではないと思うのです。イエス様が御覧になったときに喜ぶ食卓は、おびえながら、慎ましい食事をし、やせほそった人々が、コーヒーばかり飲んで必死に目を覚ましているような光景ではないと思う。

バベットの晩餐会

 私の好きな映画でバベットの晩餐会という古い映画があります。19世紀のデンマークの片田舎、そこには敬虔で清貧を重んじる村人たちが住んでいた。しかし、高齢化が進んだ信徒は怒りっぽくなり、亡くなった牧師の娘たちも自分達の人生の選択は正しかったのだろうかと悩んでいた。そんな時、家政婦のバベットが宝くじで大金を手にします。彼女は、実はフランスで起きた革命から逃げてきた、超一流の料理人だったのです。彼女は、村の人達に、そのお金を全部使って最高のフランス料理を振る舞いたいと申し出ます。信徒達は、食事とは楽しむものではないと教えられていたので、どんなに美味しい料理が来ても決して美味しいと言うまいと誓います。しかし、バベットの作る料理を堪能するにつれ、次第に村人は、幸せな気持ちになるんです。何十年来の喧嘩をしていた姉妹が仲直りし、最後は子どものようにダンスをして神様に感謝して帰っていく。

主の感謝に溢れた食卓

そう、良いしもべが生み出す食卓の特徴とは、神への感謝なのです。良いしもべは忠実だと言われます。主人が不在の間も、いつも主人の事を思っていた。そして、自分が周りに与える毎日の食事は、全部主人の気前良さからくる事を、忘れずにいた事です。そして、それを他の人にも伝えていたのです。美味しいね、楽しいねって言いながら、これをくださった主人は良い方だねと、良いしもべの取り仕切る食卓の中には主人への感謝があったのです。楽しくなって歌う歌も主人をたたえる歌だった。見えないけれど主がそこにいるという感覚。だからこそ、しもべたちは主人の帰りとは待ち遠しいものだったのです。46節「主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。」今、見えない主を覚え主の恵みを感謝する食卓を囲むこと。それが目を覚ました人の生き方なのです。主が来たときにぜひ私達が見てもらいたい光景なのです。

神の感謝を伝える人に

そんな食卓を私達は作る。もしかしたら、8月、久しぶりに家族と過ごす時、そこから私達始められるんじゃないでしょうか。今こうして過ごす瞬間は二度と戻らない。あなたにこうしてまた会えて私本当に神様に感謝しているの。あなたが私の親でいてくれて良かった、子どもでいてくれて良かった、そう神様に感謝しているの。自分が心からそう思う。そして、周りにも言葉にして伝える。皆のために、食事の感謝のお祈りしていい?と提案する。そこから、生まれる伝道ってあると思うのです。

みことばがある

 そんな悠長なことでいいのだろうか。人の子が来た時に、滅びに残されてしまうかもしれないのに。しかし主はこう言われるのです。35節「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」そして聖書は別の箇所でこう言っている。「この小さな者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」とマタイ18章14節で言っている。さらにⅡペテロ3:9では「主はある人達が遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。誰も滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」とある。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます」と使徒の働き16:31には書いてある。もちろん、自動的に救われません。伝えなければいけないのです。でも、これらのみことばが慰めてくれなければ、私達、辛くて、食事がのどに通らない時がある。でも、わたしのことばは決して消え去ることがありません。みことばは変わらないから、主があの人の救いを一番願っておられるからと、私達は安心して、日々を感謝できるのです。そして、主の訪れを待てるんです。その時、あの人も一緒に隣で笑って過ごせる事を一番願っているのはイエス様だから。

この場所で変わらない言葉を

そして伝えたいのです。過ぎ去っていく時代の中で、ただひとつ変わらない聖書の言葉を全ての人に。

バイブルカフェ、マナ、シャロンをしていて、驚くのは、子供の頃にキリスト教に触れた事があるという方が多いという事です。先日行われた、教会学校の親御さん達との交わり会でも、そんな方々は多かったそうです。過ぎ去ったときの中で、かつて私達が伝えたみことば、しかし、みことばは過ぎ去らない。その人の心が今は眠っていても、その人の中でいつかそのみことばが目覚めさせてくれる。

いつか、戸を叩くノックが聞こえる。その時、私達は、主に言える。ありがとうございます。あなたの恵みに心から感謝します。あなたは私の祈りをことごとく最善に導いてくれました。いない間も、主がまるでそばにいるようでした。そして主と共に、永遠の食卓を味わおうではありませんか。(終わり)