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Ⅰテサロニケ1章1~10節
神に愛されている者達(2025年6月20日)
神様何と言っているのだろう?
私は結構、問題が一度起こると頭から離れなくなって、壊れた機械のように延々と家でその事を妻に話す事があります。最近、妻から「神様は何て言ってるの?」と言われたのですが、そういえば独身時代も、同じ教会にいた妻から、良くそんな風に言われてたなあと思い出したのです。彼女は、自分を導いてくれた信仰のお姉さん的立場だったので、私が、あれこれ悩み相談を持ちかけると、「そっか、そっか、ゆうきは最近、聖書から神様になんて言われている?」と問いかけをくれました。その都度、はっとさせられてきました。物事をこねくり回して考える自分、相談している目の前の相手だけでなく、私に語ってくれる神様がいる。それが、私達クリスチャンの生きている現実なんだ。
パウロとテサロニケ教会
1節「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。」今日から、テサロニケ人への手紙第一を見ていきます。この手紙は、今日多くの人から、パウロがガラテヤ書の次に書いたものとされます。ガラテヤ書をアンティオキアで記した後、パウロはエルサレム会議に臨みます。そこで、異邦人の割礼の問題が決着した後で、パウロはシルワノ、テモテと共に第二次伝道旅行に繰り出します。今回の旅は、小アジアを越えて、海を越え、ギリシャ北部、マケドニア地方へと渡りました。
まず、ピリピで伝道をした後、パウロは、テサロニケにやってきます。ここは交易路に面し当時、繁栄していた都会でありました。この町で彼は使徒の働き17章2節によると「3つの安息日に渡って」、つまり3週連続でユダヤ人の会堂で福音を伝え、結果、幾人かのユダヤ人と、ユダヤ教の神に興味を持つ大勢のギリシャ人たちや、有力な婦人達が信仰に入ったのです。
しかし、幸先よく始まったテサロニケ伝道は、突如終わりを迎えます。ユダヤ人達が、会堂から続々と人がパウロに流れていく事にねたんで、パウロ達を捕まえようと暴動をおこしたのです。見つからないと今度はパウロを泊まらせていた教会員に危害がおよびそうになった。そんな混乱のさ中に、何人かの教会員の手で、パウロ達は夜のうちに町の外に逃がされたのです。
主のことばが響き渡る
パウロは、ずっと、この教会の事が気がかりであったのでありましょう。生まれたての教会を、置き去りにしてしまった。よりによって、あのユダヤ人達の中に。このテサロニケのユダヤ人は、この後、わざわざ次の町までパウロを追いかけに来たほどの筋がね入りの迫害者でした。あっという間に、あの教会は潰されてしまったのではないか。
しかし、マケドニアから南に下ったアカイア地方にいるパウロのもとに、教会の噂が伝わってきたのです。8節「主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私達は何も言う必要がありません。」驚くべきことに、彼らはあの厳しい状況で、信仰を堅く保っていたのです。
主のことばがあなたがたのところから出たという表現は、この短期間で教会が宣教に出て行ったというよりも、彼らの信仰の噂が広まることが、主のことばについての証だとパウロは思ったということです。そうとしか、思えない。あの短期間で、彼らのために十分なフォローアップができたとは思えない。彼らが、パウロがいた時と同様に、今も、6節にあるようにみことばを「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって受け入れた」、そのことばが彼らを強めている。主のことばの力が、彼らを通して今響き渡っている。
神に愛されている、選ばれている兄弟たち
だから、パウロは2節「私達は、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」そして、あの状況で、そこまで純粋にみことばを喜べる彼らを思う時に、こう言わずにはいられなかった。4節「神に愛されている兄弟たち。私達は、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」
あの人みたいに、聖書に感動できたらなと思う私にも方がいます。高齢になってはじめて教会の門をくぐった方です。聖書をそれまで読んだことがなかった。でも今救われて、本当に嬉しそうにみことばを味わっておられる。今年婦人会ではじめたみことばカード、あれが本当に私心に染みるのよと仰るのを聞いて、そんな風に豊かな神様との関係を送っている、この人は神に愛されているなあといつも思います。そして、うらやましくなるのです。
あなたたちは、見本である
しかし、パウロは、テサロニケ教会への神の恵みに驚きつつも、彼らだけが特別だという風には言っていない。特別に他のクリスチャンよりも愛され、選ばれているというのではなく、そうだ、クリスチャンとは誰もがこんな風に神に愛され、神に選ばれているんだったと、彼は再確認したのです。
なぜなら7節「その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。」この模範という言葉は、実際は、「型」と訳した方がいい言葉です。金属を型の上にのせてたたけば、必ずその形に打ち出される、そういうイメージの言葉です。神に愛され、神に選ばれているなら、必ずこうなるのですというサンプルの役割を、このテサロニケの教会の人々が果たしているというのがパウロの語っている意味です。
だから、人々が言い広めている、主のことばがテサロニケ教会の人々に起こした事、9節途中から「また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったか」。これは私達にも時に起こることです。
生けるまことの神
この9節で大事な事は、私達の神とは、生けるまことの神だという事です。まこと、というのは、真理という意味です。私達が知った真理は、生きている真理だったのです。
生きている真理とは、机上の空論ではない。私達に現実に関わっている真理のことです。そして、現実に太刀打ちできる力を持った真理のことです。逆にこれが真理だと思ったものでも、そんな力がないと気づいた瞬間に死んだ真理になってしまう。
大学の頃、私は自分なりの生きる上での信念、大事にしたい人生の真理を探しました。
どうして自分は生きているのか、この人生には何の意味があるのか。私の時代も、インドに行ったり、ロシア文学を読んだりする学生はいました。私自身も、色んな小説を読み、
自分の人生哲学で武装して、社会に飛び込んだつもりでした。しかし、結局はお金がなければ何の意味もないよねと、現実によってその真理が負けてしまう経験を味わいました。
9節で神と対比されている偶像とは、真理ではないけど、目に見えるもの、そして自分の現実に実際の力を持っているように思えるものです。力のない、生きていないような真理よりも、仕事の成果、お金、地位、家庭がいつしか自分の現実の全てになっていく。家の本棚には、若い頃読み漁った本が埃をかぶっている。死んだ真理とは、そのようなものです。
力と聖霊と強い確信を伴って
しかし、聖書の真理は生きている。パウロは言います。5節「私達の福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。」この本が、ただの本ではないのは、そこにはただ言葉が書いてあるだけでないのです。力強く、聖霊があなたの心に強い確信を伴って届けてくれる、生けるまことの神の言葉です。
この聖書を読む時、私達は、見えない神の手ごたえを確かに覚えるのです。神というお方は、他の小説の登場人物のように、本の世界の中だけを歩き回られる方としてではなく、今自分の現実に生きて働かれる方として私達に届く。パウロの語る神についての真理は、私の日常を組み立てていく力を持った言葉として届く。そして、パウロを、テサロニケ教会を愛し選んでくださった神の愛は、私には与えられない、指を加えて眺めるしかないものでなく、あなたへの神の愛として届く、愛の手ごたえを私達は聖書を読んで覚える。これが神の言葉だからです。
そして、この真理は、私達の現実に負けてしまうどころか、むしろ現実を書き換えていくのです。聖書を読んだ後では、私を取り巻く現実が違ったように見えてきます。聖書の語る神が生きている世界の方が現実だと私達は、考えを改めていくのです。神抜きでとらえていた私達のそれまでの現実の方が、偶像、目に見えるけど本物ではないと気づいていくのです。
怒りから救い出してくださる
だから、テサロニケ教会は、自分達を取り囲む迫害に打ち勝つことができた。彼らには、見えている聖書の現実があったからです。10節で、彼らは「御子が天から来られるのを待ち望むようになった」とあります。なぜなら、10節後半「この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私達を救い出してくださるイエスです」と彼らがみことばから知らされていたからです。
彼らは、目に見えるところでは、ユダヤ人達の怒りに取り囲まれていました。集会をしていると、突然、扉が荒々しく叩かれ、外から怒鳴り声が聞こえるような状況だったのだと思うのです。これが自分達にとって一番大事な問題だと彼らが感じたなら、信仰を捨ててしまって解決しようとしたかもしれない。しかし、彼らが絶えず読む聖書には、人の怒りより、もっと恐ろしい神の怒りが人間にはあるんだということが書いてありました。
人は誰しもが罪を持っていて、正しい神はそんな人の罪に対して怒られる。いつか、イエス様が天から下ってきて、その時地上のすべての悪は裁かれる。すでに、死んだ魂はその時よみがえって、神の前での最後の審判を受けることになる。人は、イエス様を信じる信仰を保つことによってしか、神の怒りから救い出されることはできない。
本当に解決されるべきこと
私達の普段目に見える現実、偶像の現実は、この神の怒りの存在を教えません。神があなたの罪に対してどう思っておられるかについて教えてくれないのです。代わりに、私達の心を占める、思い通りにならない事、心配事、恐れが、自分にとって何よりも重要な問題だと現実を錯覚させるのです。
私は、独身時代、信仰のお姉さんから「神様は聖書から最近ゆうきに何て言ってるの」と言われると、最初ムッとしたんです。何か、せっかく相談しているのに、煙にまかれたというか、論点をずらされた気持ちになったのです。信仰とか、神様との関係とか、そういう事じゃなくて、仕事の悩みとか彼女から最近別れたいと言われてどうしようとか、そういう話をしているのに。それについて一体聖書のどこから、神様は語ってくれると言うんですか。主が僕を支えてくれるという事なら、ありがとうございます、でも、私が欲しい言葉はもっと違う具体的な解決であって、それは聖書からもらえる訳がないでしょう。
でも聖書は生きた神のことばですから、私に必要な事を語るのです。それが私の一番重要だと思う問題の答えではないならば、神様から見て、それが私にとって一番大事な問題ではないという事です。
そう、聖書は、私と神様との関係について語ります。そこに今の私の問題がある。あなたの罪がある。それは本来神の怒りによってやがて罰を受けなければいけないものだったという事をあなたは再び思い出さねばいけない。
そのうえで、イエス様がそこからあなたを救い出してくださったのでしょう。もうあなたの一番大事なあなたの問題は解決されたんでしょう。その事実が、あなたの現実に何の力も及ぼさないはずがないじゃないですか。あなたを命をかけて救った神様が、あなたを放っておかれる訳がないのですから。
イエス様が迎えに来てくれる日
テサロニケ教会の人々は、みことばによって、聖書の現実こそ自分の現実だと信じたのです。そこでは、十字架に殺されたイエスがよみがえり、天に上り、やがて、天から下ってきて、私達クリスチャンを救い出してくれる。だから、彼らは、「御子が天から来られるのを待ち望むようになった。」とあります。
このイエス様の地上への訪れを、再臨と呼びます。テサロニケ第一の手紙は、5章でこの再臨について詳しく語る手紙です。彼らは、イエス様が再びおいでになる日を待ち望みながら生きていました。
私達も、待ち望んでいるのです。もしかしたら、私達が死んで、天国に行って、イエス様と再会する方が先になるのかもしれません。それはわからない。でも、テサロニケ教会が聖書によって生きていた現実とは、どんな事がこの地上でこれから先もおこっても、最後は、イエス様が私を迎えいれてくださる、その希望に支えられた現実だったのです。その希望も、死んだ希望ではない、生きている希望、力と聖霊と強い確信によって彼らの心に届いた良い知らせだったのです。
現実があなたを変えていく
その現実にテサロニケ教会が生きた時、彼らの歩みは変わりました。生けるまことの神に仕えるその姿について、パウロは2節で「あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私達の主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」と表現します。そして何よりその歩みは、6節「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私達に、そして主に倣う者となりました。」イエス様とパウロに倣う歩みへと彼らは進んでいったのであります。
問題のただなかにあるとき、私達がそれにどう対処するかは確かに大切です。でも、それ以上に、主は、何よりも私達に、主にならう者として成長してほしいのであります。2節の信仰、愛、望みとは、他の箇所でも、3点セットで、信じるクリスチャンに神から与えられるものとして出てくる。それを、働かせてほしいのです。信仰から働きを、愛から労苦を、望みから忍耐を。みことばを受け入れたあなた達のうちに神が与えたものが、生きた力を持ったものだと、あなたに神は証してほしい。みことばがこんなにも人を力づけ、歩みを変えるのだと、神はこの世界に、響き渡らせたいのです。神に愛されている、選ばれた私達を通して。(終わり)