2022年 〇月〇日 礼拝説教

イザヤ1章1~9節 シオンの娘は残された

〇困難な時代に語られた言葉
前回、十戒を見終わりました。そのまま出エジプト記の細かい律法に入って行こうかと考えましたが、そうだ、イザヤ書をこれから順番に見ていこうと思いました。イザヤという名前は「主の救い」という意味です。そしてイザヤの使信の中心もまさに主の救いです。
この当時イスラエルは外には諸外国の脅威、内には様々な問題で揺れていました。困難な時代に語られた言葉です。私自身が最近揺れてるなあと思います。これからの事を思う時にです。いや、心配させないために、私は大丈夫ですと強がることはできる。でも、その力の入れ方は、同じく揺れている人を傷つけてしまうんじゃないかと思ったんです。私達は色んなことで揺れてます。そんな者同士、イザヤの語る主の救いをこの季節一緒に見たいなと、選ばせていただきました。

〇預言者イザヤ
時代は、日名先生が解き明かしてくださっている列王記の第Ⅱになります。南北に国が分裂し、まだ北王国が残っていた時代、1節には「アモツの子イザヤの幻。これは彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」とあります。この4人の王の治世の間、40年以上に渡ってイザヤは南ユダで活動しました。

〇イスラエルの傷
1章の預言は、特定の時を定めずに語られます。おそらくイザヤが振り返って、自分が遣わされた場所とはこのような状況だったと、述べているのだと思わます。
この時南ユダは一言で言えば病んでいました。5節で「頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている」と言われます。6節「足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は火で焼かれている。土地は、あなたがたの前で他国人が食い荒らし他国人に破壊されたように、荒れ果てている」
ここでは国土が体に例えられて、外国によって国土が荒らされる様を描いています。ユダは何度も諸外国の圧迫を受けました。特に特筆すべきは1節の4人の王のうちのアハズの時代、アラム人、エドム人、ペリシテ人、さらには同胞のイスラエル人にまで国土を攻められ、エルサレムが包囲されるまでになってしまった。

〇誰も助けてくれない
絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。これは当時の治療の事で、助けを求めても誰もユダのために手を差し伸べてくれなかった現実を表します。諸外国に攻められ、アハズ王は、当時の超大国だったアッシリアに救ってくれるように頼みますが、一度助けに来てくれたアッシリアは結局のところ、彼の力になるどころか、むしろ彼を苦しめたと聖書は言います。やがてアッシリアは北王国を滅ぼし、次の狙いをユダに定めはじめていたのです。
どうしてこんな事になったのだろうか
どうしてこのようになったのだろうか。八方ふさがりの状況に陥り、苦しみもがくユダの現状に、イザヤは預言をもって語り始めます。2節「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」主が語られる。預言とは主の言葉を語ることです。預言者というヘブル語は「召し出す」という動詞に由来します。イザヤは、この混沌とした時代に、主の言葉を語るために召された。生活が脅かされ、様々な周囲の力に不安を覚え、痛むユダの民に、主が語る。それは、今の彼らの現実の「どうして」に神が意味を教えてくれる出来事です。
あなたは背いた
神が語る言葉はこうです。2節「子どもたちはわたしが育てて、大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた。」ここにイザヤの預言の根幹があります。様々な現実の苦しみの中で日々生きている私達は、神の関心事がどこにあるのかにはっとさせられる。神が語る言葉とはわたしである神と、彼らとここで言われる人との関係についてなのです。
神は言います。ユダの人ひとりひとりを、ユダという国を、子どもとして大切にここまで育ててきたのはわたしだと。この神は、4節で聖なる方と言われる神です。聖とはここでは、全てに超越した存在であるという意味です。主が語るならば、天は聞き、地も耳を傾けねばならない。そのようなお方が4節でイスラエルの聖なる神と、ユダの人々のルーツであるイスラエルとご自分を結び付けられるのを良しとしてくれた。あなたの神となってくださり、彼らを自分の子としてくださった、それが私達が見てきた出エジプトの出来事でした。そこから、今までずっとあなたを大切に育ててきたのに、あなたは背いた。彼らは主を捨てて、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。神が育ての親である事さえも忘れて。3節「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っている」動物でさえ誰に育てられているのかはちゃんと知っている。「しかしイスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」
わざわいだと宣告される
もはや彼は神にとって彼らとは、4節最初、「わざわいだ。罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。」本当は彼らはそんな存在になるはずではなかった。出エジプト記では言われていた。罪深い国ではなく、祭司の王国に、咎多き民ではなく聖なる国民になるはずだと、アブラハムの子孫である彼らは言われていた。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聴き従い、わたしの契約を守るなら。その時彼らには祝福があるはずだった、しかし、従わない場合には、呪いが、わざわいがくだる。
裁きの結果
イザヤは宣言するのです。あなたの今うめき苦しんでいる現実とは、あなたが神に従わなかった結果だと。5節「あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。」誰に対する反抗か。諸外国の複雑な力関係と外交の中をユダは生きていました。私達が間違ったのは何だったのか。あの国への対応が違ったのだろうか。こんな目にあっているのは、誰にもっと従えば良かったのだろうか。違う、あなたは神に反抗を重ねたのだと、あなたを打ったのは神なのだ。
神に背を向けているから
私たちを神が打たれる。神に背を向けているから、こんなにも自分を取り巻く状況が悪くなっている。全ての苦しみが全て神の罰ではない。主よどうしてですかと問うても、答えが分からない苦しみは信仰者にはあると聖書は言っている。でも、主よどうしてと問うことも忘れた歩みをするがゆえに状況がしんどくなる事はないですか。神の戒めを忘れて、怒りに任せて人を裁くから、一人ぼっちになってしまうんです。許すことをせずに相手を裁き続けるから、もう取り戻したくても取り戻せない関係になってしまったんです。いつまで立っても状況が良くならないのは、実は神ではない何かに、アハズ王がアッシリアに頼んだように他の物を頼っているからではないですか。でも誰も包んでくれない。痛みを和らげてもくれない。
包囲された町のように
主は言われる。それなのに、あなたはなおも、どこを打たれようとするのか。いつまで立ち返ることをしないのか。8節に、娘シオンは残されたというように、エルサレムはなおも残っている。けれど、それはあたかも、「葡萄畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように」。最初の2つの比喩に、もしかしたらのどかな印象を持つかもしれませんが、3つ目の比喩が、前の2つがそうではない事を教えてくれます。この小屋とは、農夫が収穫の時だけ仮住まいするほったて小屋の事です。普段村に住み、畑に行く。けれど、収穫の時は家に帰る時間が惜しいので建てた小屋なので、それは必要最低限、残されたエルサレムとはそのようなものだという事は、あまりにもみすぼらしい。さらに、収穫が終わり住む者もいなくなった小屋は物寂しさを人に抱かせたでしょう。見捨てられた町エルサレムが残っているだけ。それが、神に選ばれたイスラエルの現実でした。
主が残された
しかし、そのようなエルサレムであっても、しかしシオンの娘は残されたと言われる。
麗しさとは無縁であっても、それでも神は神はその都を残し、そこにいる人々を残したという事実をイザヤは見た。そして言う。9節「もしも、万軍の主が、私達に、生き残りの者をわずかでも残されなかったなら、私達もソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう」。
まだイスラエルは残っている。残っているのならば、主に立ち返る希望がある。
主は私達にそれでもなお希望を残される。この希望を体現した人々とは主が私たちに残してくださったのだと言われる。残された彼らが特別に信仰深かったから、イスラエルの中に主が希望を見出したからではない。主が残された。主の憐れみによって残された。それがなければ、私たちもソドムとゴモラのように全く滅ぼしつくされていただろうとイザヤは告白する。イザヤはそんな主に希望を見出したのです。
滅ぼしつくすことはない
主は滅ぼしつくすことはしない。どんなに激しく打たれても、希望をまだ残してくださる。主の側からです。
人が主に立ち返ることができるというのは不思議だと思います。あれほどどっぷりと神様から離れていた生活をしていた自分がまた教会に、祈祷会に戻ってくる事ができたという経験がある方は、それは自分の力でできた事ではなかったと言えるはずです。神がしてくれたと。そしてどんなに怒りの中に、神から離れた思いの中に歩んでいるまさにその瞬間でさえも、いつだって神に立ち返るきっかけを残し続けてくれる神がいる。
私達も
注目したいのは、イザヤが9節で、「私達もソドムとゴモラのように」と自分もまた主に逆らって歩むイスラエルと同じ1つの存在、私たちなんだと言っている事です。イザヤは、そんな状況にいる民の問題を、自分の問題として考えた。自分の事として悩み、自分の事として苦しんだ。そして自分の事として主にある希望を見たのです。
私達は、教会として、今神様から離れて教会の外へ行ってしまい、歩んでいる魂の事を自分の事として祈りたい。
この前の日曜日滝口雄二さんが久しぶりに来てくれました。私も滝口姉妹の葬儀で面識があったので、バルコニーに座ってる彼のところに行くとですと、最近教会の婦人に会って、日曜日おいでと言われたと。来ないと怒られるから来ましたとか言ってたんですが、皆さんその後も沢山雄二君に話しかけられて、結局雄二君も外の物の片づけが日曜あったのですが最後まで残ってやってくれていました。
家族が教会から離れる痛み、その事を自分の事として悩んでくださる皆さんだから、久しぶりに教会に来たその人を、みんなが自分の事として喜べる。主は必ず希望を残される。共に揺れながら、主に期待し続けていきたいと思います。