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ガラテヤ2章1~14節
どうして強いるのか(2025年2月9日)
14年後の訪問
前回、パウロは、自分が救われて3年が経ったあと、エルサレムに上ったと話します。その後、パウロは、故郷タルソで、10数年活動し、アンティオキアへやってきます。今日の箇所は、使徒の働きの記述と照らし合わせると、まだ伝道旅行に行く前、アンティオキアにやってきて1年後に起きた出来事だと言われています。
1節「それから、つまり最初のエルサレム訪問から14年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。」当時、ユダヤで飢饉が起こり、救援物資をパウロ達がアンティオキアからエルサレム教会に運ぶことになりました。10節では、エルサレムについたパウロは、使徒達から「貧しい人たちのことを心に留めるように」と言われますが、それは、この訪問の直接の目的が飢饉の援助だったからだったのでしょう。2節の「私は啓示によって上った」というのは使徒の働きに出てくる、この飢饉の事を知らせた預言者アガボの言葉でしょう。
パウロの目的
しかし、パウロ自身にとって、この訪問は同時に別の目的がありました。そのために相当な決意をもってエルサレムに上ったのです。2節途中「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました。おもだった人たちには個人的にそうしました。」
彼の目的は、自分の福音を、エルサレムの人々、特に使徒達の前で話すこと。すでに、この時点で、パウロは、異邦人に割礼は必要なく、イエスを信じれば、ユダヤ人と全く同じように救われるんだという真理に立っていました。すでにアンティオキア教会では、異邦人とユダヤ人に何の隔てもない、主にある交わりが生み出されていたのです。
その真理を分かち合うために、あえて、今回テトスという割礼を受けていないギリシャ人の信者を連れていきました。しかし、この当時すでにエルサレムには、4節で「忍び込んだ偽兄弟たちがいた」。パウロに反対し、異邦人にも割礼を受けさせるべきだとする人達が
待ち構えていたのです。5節「私達は、ひと時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがた、つまり異邦人のもとで保たれるためでした。」グッと力を入れなければいけない戦いが、この訪問に待ち構えている事を、アンティオキアにいた時から彼は気づいていたでしょう。
そして、使徒達と会うと言ったって、パウロは彼らとほとんど面識がありません。最初の時、彼が交わった使徒はペテロのみ、しかも期間はたった15日です。自分のこの異邦人の割礼についての確信に、使徒達がどんな反応をするか分からなかった。危険な賭けでありました。
走っていることが無駄にならないように
それでも、彼は正面から会いに行くんです。私の福音は、あなたたちと同じですよね。それは、2節で「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように」。しかしもしこの訪問で使徒達と意見が食い違ったら、一気にパウロの福音は違うんじゃないかとむしろそっちの方が、彼のやってきた事が無駄になってしまう気がする。でも、違う。彼らと自分の福音が一致していると確認ができなければ、アンティオキアとエルサレムでは別々の福音が語られ、異邦人とユダヤ人は永遠に1つにはなれない。それこそが、今まで走ってきたことが無駄になってしまうことだった。そして、あんなに偽りの教えには偽兄弟と、断固とした態度で戦った彼が、この時謙遜に、使徒達に対しては、自分の確信を分かち合い、判断を仰いだ。それは、この違いを超えた者達を1つとする福音を信じる者として、自分から、歩みよっていきたいと思ったのであります。パウロの過激さも、謙遜さも、彼の信じる福音に基づいていました。
福音に向かって走ること
ところで、パウロは、2節で走るという言葉を使いますが。走るってパウロの好きな言葉なんです。うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、目標を目指して走っているのです。ピリピの手紙の言葉です。彼は自分の信仰生活を走ると表現するのですが、もしかして、文字通りパウロ走ってたんじゃないかなと思うんです。彼は、ものすごい健脚なんです。第一次伝道旅行で彼が歩いた道の距離は、1200キロでありまして、これは東京から福岡の高速道路の距離なんです。しかも、彼が歩いた小アジアの道は、山あり谷あり峠ありです。アスリートの体ですから、平地に出たらぴゅーっと彼は走ったかもしれない。そんな楽しい姿を想像するのです。
そして、信仰生活という走りには、目指す目標があります。それについては、今日の箇所の後の方で14節でこんな表現があるんです。「福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいない」逆に言えば、福音に向かってまっすぐ走っていくんです。すでに信じている福音を、その真理にふさわしく生きること。それが、福音に向かって生きることです。わたしの信じていることが、わたしの生きていることになっていく。それが私達クリスチャンの前に、置かれた歩みであります。
ペテロの模範
まあ、この14節で、福音の真理に向かってまっすぐ歩んでいないとパウロに言われてしまうのは、聖書朗読ですでに皆さんお気づきだと思いますがペテロですよ。それについては後で見ますが、まず先ほどまで見ていた、パウロのエルサレム訪問の時に話を戻すとですね、でも、福音にまっすぐ歩む姿を示したのは、この時は実はペテロだってそうだったんですよ。
パウロはそれを懐かしく思い起こします。6節「そして、おもだった人達からは―彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません―そのおもだった人達は、私に対して、何も付け加えはしませんでした。それどころか、ペテロが割礼を受けている者への福音を委ねられているように、私は割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました。ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。」ペテロ達は、理解してくれた。福音を伝える相手は違う、働きは違う。でも、ここにあるように、パテロもパウロも、福音を委ねられ、神によって働きかけられ、使徒とされたという事は同じなんだ。私達は同じ福音を信じ、同じ神の恵みに動かされている。
交わりの手を差し伸べ
そして9節「私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファ、ペテロのことです、とヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。それは、私達が異邦人のところに行き、彼らが割礼を受けている人々のところに行くためでした。」柱として認められている側が、率先して手を差し伸べた。イエスの直弟子、12弟子の筆頭として王道の中の王道を生きるペテロが、全く別のところから使徒に召されたイレギュラーのような存在のパウロに、謙遜に交わりをもとめたのです。
それはペテロがこの時、自分の信じる福音に歩んだからです。決して、肉の、福音書の時代のペテロだったら、こうはならなかった。めちゃくちゃパウロをライバル視したと思うんです。イエス様が死にそうなのに、誰が一番偉いかを論じ合っているような彼でしたからね。でも、彼は救われてそこから自由にされた。確かにこの時、彼のうちに、5節でパウロが言う表現をかりるなら、「福音の真理が保たれ」ていたのです。
歩みがずれてしまう時
しかし、その同じペテロが、この後、アンティオキアでは福音に向かってまっすぐに歩んでいないとパウロから言われてしまう。しかし、私達の信仰生活には、そんな現実があるんじゃないでしょうか。
西本先生が、時々私に、牧師は短距離じゃないんやぞ、マラソンなんやぞと言ってくださる事があるんです。何事も前に前に進みたくなる私ですから、いつもそうだよなって思っているんです。でも、事実牧師も信仰の歩みも、長距離だからこそ、そのレース中に良い状態の時もあれば悪い状態の時もある。色んな事が起こるものです。
ペテロも歩みがズレてしまっていたんです。11節「ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人達がヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。」
本心を偽った行動
ペテロは、本心を偽ったんだとパウロは言います。ペテロは変わらずに、パウロが言うとおりだ。異邦人とユダヤ人の救いに違いはないと信じていました。だから、何の隔てもなく、異邦人と一緒に食事をしていたんです。ですが、自分に続いてアンティオキアに、エルサレムにいるヤコブのところから来たと名乗る人達が来ます。このヤコブは、9節の柱の1人である12弟子ヤコブではありません。少しややこしいのですが、使徒の働きの記録を見ると、使徒ヤコブはこの出来事の間に殺されている。こちらのヤコブは、イエスの弟ヤコブで、独自にエルサレム教会で評判を伸ばしていた人でした。そして、教会には、依然として、割礼派の勢力がうずまいていて、この主の弟ヤコブを担ごうとしていたのだと言われています。実際の、ヤコブ自身はペテロと同じ見解でしたが、その取り巻きを自称する人達が、ペテロに恐らく言ったんでしょう。ペテロさん、割礼を受けていない異邦人と食事なんてしちゃいけないんじゃないか。彼らは汚れた存在じゃないか。あなたの行動はエルサレムで問題になってます。帰って、イエス様の弟ヤコブさんに報告しますよ。
すべてが無駄になる
そこで、ペテロは、妥協し、異邦人と関わりを持たないようにし始めた。交わりの手を引っ込めてしまった。
福音は、すべてを人を1つの神の家族にすると私達分かっているけれど、あの人と交わると周りがどう思うだろうか。自分の友達が、あの人に良くない印象を持っているの知っているから、友達の手前、自分も話しかけない。でも、それではペテロのように、パウロから私達言われてしまうのです。パウロの自分自身に課した2節の言葉を借りるなら、人の顔を恐れて生きているなら、あなたが今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄になってしまう!パウロはここで戦うんです。ペテロのために戦うんです。5節でパウロは割礼を巡る戦いに「私達は、ひと時も譲歩したり屈服したりすることはなかった。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。」と言います。まさにその情熱を今彼ペテロのために注ぐんです。
奴隷にしようとする恐れ
割礼派は、異邦人を4節にあるように「奴隷にしようとして、キリスト・イエスにあって私達が持っている自由を狙って、忍び込んでいたのです。」同じように今人への恐れがペテロを奴隷にしようとしていた。彼の心から、自由を奪おうとしている。周りはどう思っているだろうか。あの人は何と思っているだろうか。それによって本心を偽って。本当はそんな思いではないのにと自分の良心を痛めて。そんな生き方の奴隷に、あなたを引き戻そうとするのは人への恐れなんだ。それがあなたを福音に向かって歩めなくさせている。
もう一度福音が福音として
同情すると、ペテロは、初代教会のリーダー中のリーダーですよ。プレッシャーがあった。彼の発言や行動は教会でとてつもない重みをもった。だから、簡単に自分の意見を言えず、色んな調整に負われ、あっちの意見を聞いてこっちの意見を聞いて、心をすり減らしていたでしょう。愛の配慮が、人への恐れへと自分でも気づかないうちにすり替わり、自分を不自由にしていく事はある。
しかし、そんなペテロに14節のパウロの言葉はもう一度、福音を呼び覚ます。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば」
ペテロは、自分自身との神との関係について言ってもらったんです。神との関係では、あなたは、ユダヤで罪深いとされる異邦人のようにあなたも罪深い存在だったじゃないか。でも、そこから、救われたんじゃないか。パウロは人を恐れるペテロにもう一度、福音に、キリストに彼の心を戻そうとする。
思い出す自分の罪深さ、イエス様を裏切った自分、しかしガリラヤ湖で私とまた会ってくれたイエス様の姿、私の羊を飼いなさいと言ってくれたイエス様の声、交わりの手をこんなわたしに差し出してくれたのはイエス様だった。なぜ、私が、交わりの手を誰かに向けてひっこめる資格などあるだろうか。
福音があなたの喜びであるために
「私達は、ひと時も彼らに譲歩したり屈服したりすることはありませんでした。それは、福音の真理があなたがたのもとで保たれるためでした。」時に、過激に映る、パウロの生きる目的でした。信じた人が、福音の真理があなたのもとで保たれるために。だから、パウロは教会に手紙を何枚も書きました。伝道して信じれば終わりじゃない。よろめいてしまう、まっすぐに歩けなくなる、あの人は大丈夫だろうか、言わなければいけない。
キリストの福音は、自由です。そして、福音とは、わすれがちですが、良い知らせ、喜びの知らせという意味です。福音の真理が保たれるとは、福音が、福音として、喜びとして保たれていること。ああ、もう自由だ。心縛られていたあの人の顔、あの人の言葉、キリストが私の心にある言葉を全部上書きしてくれて、もう一度歩みを続けさせてくれる。その喜び、その自由。それがあなたのうちにあるために、私はなんだってしよう、どんな言いにくい事って言おう。
福音に向かってまっすぐにもう一度
そして、歩き出してほしいのです。私達に、福音に向かって、違いを認め合いながら、1つになっていく。自由に交わりを生み出していく。自分と違う相手に、交わりの手を差し伸べるのは、あなたの側からです。それが福音に向かってまっすぐに歩むということなのであります。(終わり)