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ヨハネ4章1~26節

その水を飲ませてください(2026年4月26日)

井戸の前での出会い 

イエス様は3節「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第6の時であった。」今でいう正午、イスラエルでは外を歩く際には、水筒が欠かせないんだそうです。昔の旅人は、命綱である水を求めて、井戸を目指して移動しました。でも着いてみたらその井戸は深く、くみ上げるための、ひもで吊るす桶をイエス様達は持っていなかったようです。8節で弟子達は食べ物を買いに町に行っていたとあります。水を汲むための道具も借りに行っていたのでしょう。

1人、ぐったりと井戸の傍に座り込むイエス様は、カラカラに渇いていたと思います。もうすぐ夏になると、朝鉢植えの花に水やりを忘れると、昼間には、先っぽがうなだれてしまいます。そんな風にうなだれるイエス様。すると、向こうから、この町に住む1人の女性が水を汲みにやって来たのです。 

 しかし、旅人ならともなく、町の人は、普通こんな日差しが強い時間に水汲みには来なかったのです。水汲みは当時女性達の仕事で、朝早く皆で連れ合って行くものでした。そこで始まる井戸端会議、それが息抜きの時間だったんです。

ひと時でもこの渇きを満たしたい

この女性は、しかし、その輪に入れない。曰くつきの女でした。18節を見るとこの女性にはかつて5人の夫がいたとあります。5人全員と死別したとは考えられませんから、彼女は何度も何度も離婚と結婚を繰り返したのです。それが町ですっかり評判になってしまっていたのです。

でも彼女だって、もちろんなりたくてそうなった訳ではない。若い頃の彼女は、きっとどこにでもいる普通の女の子で、結婚に憧れを持っていたんだと思うのです。しかし彼女が思い描いた暖かな家庭は、お互いを罵り合う声が響く食卓に変わった。もう、彼女は、今一緒に住んでいる相手とは結婚をしていない。もう結婚はいい。それでも、彼女を愛していると言ってくれる男性が現れる度に、どうしても彼女は、抵抗できなかった。その同じ相手が、やがて別人のように冷たくなるという事を何度も経験してきたけれど、それでも、傍にいてくれる男性がほしい。家に帰って甘えさせてくれる相手がほしい。綺麗だよと言ってもらいたい。そんな存在がいない人生は耐えられない。例え、また失望する日が来たとしても、この渇きを今日潤さないと彼女は生きてはいけない。

それと引き換えに、彼女は真昼に、隠れるようにして水を汲む毎日を選んだのです。周りからもう知られている、でも、会わなければ、自分のしている事を言われずに済む。

不思議な旅人

 でも、誰もいないはずの井戸に、今日は1人の男性がいました。一瞬彼女は緊張したでしょうが、その人がユダヤ人の旅人らしいと気づくとほっとしたでしょう。9節にあるように、彼女たちとサマリア人とユダヤ人達は、仲が悪く、徹底的に付き合いをしなかったのです。話しかけられることなどありえない。しかし、このユダヤ人は、彼女に水を飲ませてくださいと言ってきたのです。9節“そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」いくら喉が渇いているとはいえ、変わった人だなと彼女は思います。

しかも、この人との会話は、どんどん変な方向に進んでいきました。10節“イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」”ん?ん?水をくださいと今、言ってきたのはそっちですよね。逆にあなたが水を私に与える?彼女は、ちょっとこ馬鹿にして言うんです。「あなたは汲む物を持ってないじゃないですか、この井戸深いですよ。その生ける水というのを、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、この井戸を掘ったヤコブより偉いのでしょうか。」すると、イエスは答えられた。13節「この水を飲む人は皆、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」ヤバい、この人話通じない。

でも、彼女は、イエス様がいうような、渇くことのない水なんてものがあるなら、ほしいなと思いました。15節“彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私にください。」”こんな風に、毎日炎天下、隠れるようにして水を汲みに来たくない。きっと毎日彼女は、惨めな気持ちになっていたのでしょう。

あなたの夫を連れてきなさい

しかし、イエス様は、次はこんな事を言います。16節「あなたの夫を連れてきなさい。」相変わらずかみ合っていない。でも、今回は、その意味が2人だけには分かった。一気に、イエス様は、彼女の一番知られたくない事に、いきなり踏み込んできたのです。彼女はたじろいて、とっさにあいまいな表現をします。17節「私には夫がいません。」それは確かにその通りなのですが、うまく都合のわるいところを隠したことばです。しかし、イエス様は17節続き「自分には夫がいないと言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が5人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

気が付けば、二人の会話が変わっていました。そして、かみあわないように見えて、実は、ずっとイエス様は、彼女の心の渇きの事を話されておられたのです。

この水から飲む者はみな渇きます

 「この水を飲む人は皆、また渇きます。」炎天下の中で隠れてでも、汲みに来なければならないこの井戸の水、それは彼女にとって、男性の愛でした。それを汲まずには生きられない。でも求めて求めても、汲んでも汲んでも毎日、毎日渇いていくのはこの井戸の水も男性の愛も同じだったんです。彼女の心は、ずっと満たされていない。自分の気持ちを、この人も結局わかってくれない。自分が望むほどにはこの人も愛してくれない。結婚相手とはただ愛されるためではなく、私が愛する存在なんだと、分かっていても、渇いた心が暴走してしまう。相手からもらえるもので満たされず、その結果、あなたの夫を連れてきなさいと言われても連れて来れる人がいない、そんな人生を送っていた彼女。

その彼女を、井戸端に来る他の女性達は悪く言ったでしょう。あなたの夫を連れてきなさい、そうイエス様に言われても、連れてこれる夫が妻がいて私はよかった。

でも、私たちにも、人目に隠れて渇きを癒そうとする何かがあるんじゃないかと思うのです。周りに言えない罪を犯している。依然してしまっていると言われても仕方ない関係や物がある。こんなにも自分が、人に良く思われているかが気になっている人なんて知られたくない。良くない事だと思いつつ、せっせと汲みに来る井戸が私達にはある。

イエス様から水を飲まない限りは

でも、イエス様は仰るんです。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。」そんな水は私しか渡せないと仰るのです。

私達のうちには、誰もが渇きがあります。

この前の高校生キャンプの行きのバスで、歌の歌詞から曲名を当てるクイズがありました。賛美歌かと思って身構えたのですが、お題になったのは今どきの曲でした。正直、全然わからない。でも、今の知らない歌詞を聞きながら、バスの中でふと思ったんです。ああ、表現は違うけど歌っていることは同じなんだなあ、と。誰かとつながっていたい。自分の事を受け入れてほしい。そういう思いの曲を、この子達も歌にしているし、私たちもまた、違う言葉で同じことを願ってきたのではないでしょうか。人の心の中にある渇きは、昔も今も変わらない。

中には、私が職場で出会ってきた方の中には、愛されたい渇きとか良く分からない、そう言うだろうなという方もいました。でも体壊すまで仕事するのは、やはり何か満たされないものがあるからではないかと思うんです。自分を自分が十分良くやったと認めらない。

自分が自分を受け容れられない。

でもイエス様だけです。このお方だけです。本当に自分の魂がカラカラになるほどに渇いた私達を、ああ生き返ると潤してくれるのは。あなたの価値を、あなたが存在していることの尊さを本当に理解してくれているのはイエス様だけです。こころから安心できる、してその肩に自分の全体重をかけて、どんな時もいつだってよりかかれるお方はこのお方ですよ。他は無理です。

それなのに、私達は、間違った場所から水を汲んで、そして満たされないと不満を覚えたりする。そうやって、人には隠れていても、内側が崩れている私達の人生がないでしょうか。分かってくれない、愛してくれない、当然です、その人は神ではないんだから。水を汲む場所を間違えている。それは人に対して失礼なんです。限界のある中で、愛そうと私の事をしてくれる人に対して。

あなたと2人きりになるため

そんな彼女の状況をでも主は知っていて、あえてその話題に触れてくださるのです。

イエス様は、ただ彼女の事を周りに暴露したいのではないのです。この会話は、彼女のために、周到に準備されたものでした。周りに誰もいない、弟子達もいない場所で、この井戸は、今、彼女とイエス様だけの安全な場所でした。そこで、イエス様は、彼女にその事を考えるように導かれたのです。

今もそうです。人に言えない、渇きがあります。私にもあります。でもそれを、この場所で、1人ひとりに、心の中でイエス様が関わってくれる、同じ場所にいるけど、誰にも聞かれることがない。私の渇きも、あなたの渇きも、お互いに知られることはない。今この場所は、あなたにとって世界一安全な場所です。イエス様とあなたしかいない井戸です。

そのためにイエス様は、わざわざ来てくれました。この井戸で、この時間、彼女と二人きりで話すこと。思い返せばこの時、6節で「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。」疲れを覚える旅でした。さかのぼって1節以下は、ユダヤ地方でバプテスマをイエス様の弟子達が授けていることがパリサイ人達に問題視され、そのためにガリラヤ地方に上って行かれたとあります。その際に、4節で「サマリアを通って行かなければならなかった。」ユダヤ人としては、出来たら避けたい場所でした。あえて遠回りでも避ける人が多かったのです。弟子達からしたら、そういう状況に迫られての旅に見えました。

しかし、イエス様からしたら、ぜひサマリアを通っていかねばならない理由があった。この井戸で、彼女に会うためです。今日も、ここに来る理由が神にはあった。ここで、心の渇きを覚えてこの時間にやってくるあなたに会うためです。

私は乾く、渇きを埋めてくださる主

そのために、こんな真昼に水を汲む物も持たずに、井戸の傍で、カラカラに渇いてくださったイエス様の姿。私は、十字架の上のイエス様が重なるのです。やがて、この福音書で、十字架の上で、イエス様は仰ることになる。「私は渇く」と。渇いた私達のために、私が渇く。それは何のためか。今日の13節で主は仰った。「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」決してなくならない神の愛の水があなたの心から湧き上がってくるために。私は渇く。だから、私から、もうこれからはあなたは水を汲むのだ。

満たされて生きる

キャンプの行きのバスのレクで、巷のラブソングを普段親しんでる姿を私に見せてくれた高校生たち、その子達が、2泊3日のキャンプの間に変わっていくのが分かるんです。歌声が、段々大きくなっていく。巷のラブソングじゃありません、賛美です。あなたを愛します。あなたの愛を受け取ります。あなたはとは、恋人ではありません、神様です。でも、2日目の夜の集会では特に、会場を熱気で満たすような彼らの歌が聞こえる。そして、イエス様と出会っていく。満たされていくんです。

イエス様との会話で、彼女の心の中に生命の泉が吹き出てきました。そして来週の箇所ですが28節“女は自分の水がめを置いて街へ行き人々に言った。聞いてください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか”。彼女は街へ出ていきました。我を忘れて水瓶までおいて、そして叫んだんです。私のしたこと全部を知っている人がいる。本当の私を全部知っている人がいる。彼女はあれだけ人に出会うことを隠していたにもかかわらず人前に出ていくことができるようになったんです。

彼女は、一緒に住んでいる男性との関係も、ちゃんと正しい形に変えていけたのだろうと思います。そして間違いなく、もう彼女は、隠れて真昼に井戸に水を汲みに行くことはしなくなったに違いありません。

その変化が、あの真昼の井戸の出会いから彼女に始まっていったのです。今日、私達にもイエス様が待っていてくださいました。私達のために、渇きをイエス様は覚えながら、それよりもあなたの渇きの事を私は放っておけない。不思議な会話はすでに始まっているのです。あなたとイエス様しかいない場所で。さあ、生ける水に渇きを満たされて、それぞれが帰っていきたいと思います。(終わり)