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ガラテヤ5章13節~26節
御霊によって歩む(2025年5月11日)
自由への憧れ
私は、高校時代、仏教系の男子校で、厳しい寮生活を送っていました。夕食を食べ風呂に入ったら、強制的に夜10時まで学習室。勉強に全く身が入らなかった私は、舎監の目を盗んで小説を読んでいました。好きなアメリカの作家がいて、行った事も住んだこともないのに、自由の国アメリカというイメージへの憧れがありました。小説の中のドラマチックな人生に比べて、貴重な青春を、暗いこの学習室で自分は無駄にしていると感じていたのです。
自由を味わうために召された
パウロはこんな風に言ってくれます。13節「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。」召しという言葉を使う時、例えば、私は今この仕事に召されている。働きやこの人との関わりに召されている。そんな風にも言いますが、ここでは、クリスチャンなら誰もが受けている召しの事です。そして、召しとは、神様があなたの名前を呼んでいらっしゃいと言うことです。それは自由を与えるため。
この自由を信じた時私達は与えられました。もう自由の国に今私達移されたのです。最近パウロが言っている自由とは、自分の救いのために何かをしなければという事からの自由でした。あなたの救いは揺るがない。その事実が自分の心にどんな影響を与えるか、自分の歩みがどんな風に変わるのか、私達は、すでに与えられた自由の味わいを知っていく。そのために私達は召されたのです。
欲求を制御できない
もちろん、この自由は何でもありの事ではないと、パウロは丁寧に説明します。13節続きにあるように、「その自由を肉の働く機会と」してはいけないのです。自分の救いに安心することは、行いを改める必要はないという事にはならない。
「肉の働き」とは何でしょう。 それが、具体的に示されているのが、19節から21節であります。「すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そう言った類のものです。」また16節には「肉の欲望を満たす」という言葉が出てきます。
私達、肉の欲望というと、自分の肉体から湧き上がる欲求の事のように思うかもしれません。しかし、食欲も、性欲も、聖書はそれ自体は悪いものとは描いていません。そうではなくて、それらの欲が曲がった形で暴走してしまう、それがここで言われている、みだらな行い、汚れ、好色、そして、終わりの方の泥酔、遊興であります。
遊興って言っても、私は別に派手な遊びなどはしていないし、そんなお金も家族から渡してもらえないというそんなあなた、この言葉の別の訳は食いしん坊であります。ドキッとしたあなた、でも、イエス様だって、食いしん坊の大酒飲みと言われていたじゃないかという言い訳が浮かんだそこのあなた、私の事ですが、イエス様の食いしん坊とパウロが肉の働きとここでいうものの違いは、イエス様は、肉の欲求を自分で制御できていたという事です。
神の支配を受け入れない
パウロは言います。21節後半「以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」神の国、神のご支配のことです。神の国に入るとは、神の支配を受け入れることです。肉の欲求のままに歩む時、神の支配を受け入れない。
でも、それこそが自由という言葉の意味のように社会で使われる時がある。高校時代の私が憧れた自由もそうでした。何からも支配されない自由。自分を抑えるつけるものから解放され、自分の良いと思う基準で生きること。そんな社会では、性関係についても、結婚関係に縛られない在り方がまるで自由かのように表現されたりする。もはや神の支配、神が聖書で示す基準も、キリスト教国と呼ばれる国であっても、この自由を押さえつける悪者になる。不品行も、怪しげな偶像礼拝も、魔術も、自分が良いと思うなら良いものになる。
奴隷となる自由?
しかし、そんな風に一切の押さえつける権威から解放されることが自由だと思っている人にとっては、今日のパウロの言葉は驚きなのです。彼は13節でこう言います。「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」「互いに仕える」という言葉については、もっと正確にその当時の社会に即して言えば、「お互いに奴隷となり合え」と勧める言葉であります。はじめて聞いた人々の衝撃を想像してほしいのです。あなたはもう自由なんだ、ではその自由をこの地上でこれからあなたが味わって生きていく道はどこにあるか。表現の自由か、性の自由か、違う。 人の奴隷になる自由においてだと言うのであります。
なぜ隣人を愛せよで全うされるのか
ひとつ、この表現をもう少し考えてみたいのです。なぜ、パウロは、神の奴隷となる自由と言わなかったのでしょう。もちろん、私達は、神のしもべとしても生きる訳ですから。
そして、14節で“律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という1つの言葉で全うされるのです。”とパウロは言います。ご承知のように福音書の中において、主イエスは律法学者、パリサイ人たちと語り合いながら、律法は、それともう1つ、全身全霊で神を愛することに要約されると言われたのです。それはパウロも分かっているはずです。なぜ、ここで、隣人への愛の戒めだけをパウロは触れたのか。
カルヴァンという人はこの箇所の説明でこう言います。「われわれ信仰者は、神を愛している、神のみを大切にしているという口実をもって、隣人を愛するということをまじめに考えないですむとしていることがあるからだ、と。」
他者と共にいきられないエゴ
そう思うと、肉の働きについて「敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派」、人との関わりについていちばん多く言葉が重ねられているのにも、理由があるのでしょう。何よりも他者と一緒に生きられないことに、肉の欲求を制御できない私達の姿が現れるからであります。
それを、エゴという言葉で表現できると思うのです。私達、わがままになれる場所を探している。学校生活の友人関係や、仕事における人間関係が、なぜこれほどまでに私たちを疲れさせるのか――それは友情という結びつきが、 実はエゴを中心とした薄い氷の愛の上に成り立っているからです。誰もが自分のエゴを満たしたくてしょうがない。だから、一緒に生きるために時には、相手のエゴを満たしてあげるためにお世辞を言い、無理して自分を犠牲にしなければなりません。そういう仕え方をする。こんなものを友情と呼び、親愛と呼んでいる自分を、ときに情けなく思いながらです。思ってもいないことをいい、気を使い、そんな自分を不自由だと思うながら。
だから、ここなら自分のエゴを通せると思ったなら、敵意、争い、そねみ、怒りをまき散らしても主張する。そのまま分裂、分派が起きても私は自分の願いをかなえたいんだ。
行いがうぬぼれに
教会に向けて、パウロはこう語るのです。15節「気をつけなさい。互いにかみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。」26節「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう。」教会の中でも、お互いのエゴが食い合ってしまうことがある。そして、うぬぼれがその事に気づけなくさせる。
人に仕える事でさえ自分のエゴだったりするから怖いのです。私、信じて東京の教会に行き始めたころ、皆から優しくしてもらえるのが嬉しくて、毎週礼拝後に、食事会を企画して、パスタやピザやら色々振る舞ってたんです。でも、ある時、青年会役員会から、気持ちは嬉しいんだけれど、もっと幹君は今は、何かをするよりも、皆と交わってくれた方がいいと思うと言われたんです。顔が真っ赤になりました。自分がそれをする事で手っ取り早く皆の中で居場所を作ろうとしてた事が見透かされた気持ちになりました。そして、実際、その後、他の青年が適当に材料を炊飯器に入れて造った炊き込みご飯を、皆美味しい、やっぱ愛餐会ってカレーか炊き込みご飯だよねと言っているのが聞こえてきて、いたたまれなくなってその場を抜け出したのです。
あなたのうちにある御霊
クリスチャンになっても、人に仕えようとしてさえも、私のエゴは暴れ出して、人と一緒に歩むことを難しくさせる。でもパウロは、今日、もうひとつの私についての事実を語ってくれる。そう神の自由に生きるとは、もうあなたは自由だという事実を信じ生きることでした。同じように、今日彼は言うのです。16節「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
聖書は、信じた時私達のうちに聖霊が住んでくださっていると言います。これがあなたについての事実です。パウロも25節「私達は、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」と語ります。私達は、今御霊によって生きている。
救われた後、私達の中に、今、二つの思いがある。1つは、慣れ親しんだ、肉とパウロがいう自分の思い通りにしたいというエゴです。でも、もう1つは、全く新しい御霊です。
人に心から仕えたいと思う神の心があなたにはある。
あなたのうちにあるキリスト
御霊とは、キリストの御霊と別の手紙で言われます。キリストの心とも言われます。聖霊はキリストを私達の心に証してくださるからです。
思えばこのキリストこそ、私達のために奴隷となってくださったのです。ヨハネの福音書では、最後の晩餐の始まりに、イエス様が弟子達の足を洗ってくださったという記事があります。それでは、奴隷がする仕事でしたが、驚く弟子達の声を静止して、主はそれをしてくださったのです。そして、私はあなた方に模範を示したのだと言われたのです。
このキリストが、私のうちに生きている。その事実に、パウロは、エゴから自由にされたクリスチャンの希望を語ってくれるのです。17節では「肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この2つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。」クリスチャンには、肉の願いと、御霊の願いという2つの対立している思いがあるんだと言うんです。でも、パウロは、それを互角の戦いとは見ていない。24節で「キリスト・イエスにつく者は自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」とあります。イエスにつくとは、イエスのものとされたという意味です。もうあなたはイエス様のもので、イエス様が心にいるんだから。どんなに肉が戦いを挑もうとも、もう昔のようにはあなたは生きられない。
御霊の願いがわたしの願いに
では、もう1つ興味深いことに、17節で、肉と御霊が互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなるとありますが、ここで、パウロが言っている、あなたの願いは一体何なのでしょうか。
パウロは、後にローマ書で、私の内に善を行いたいという願いが確かにあるというのです、同時に、私のうちにある罪が戦いを挑むんだという思いを口にします。御霊によって私達が歩むとき、しかし、私達は肉の願いに打ち勝つことができる。その時、あなたは願っていることができる。御霊の願い、愛をもって隣人に仕えること、それは、あなたが本当は心の深いところで望んでいた、あなたの願いなんだ。
本当のあなたの願い
神は、本当のあなたの願いを知っている。罪にけがれる前の、神が造った本当のあなたの心を、その心が何を実は願っているのか、あなた以上に神は知っているんです。
誰かのために、生きたい。イエス様のように生きたい。私達知っているんです。こんな私が、そのようにキリストによって生きられた瞬間、思う。ああ、そうだ、こんな風に本当は、生きたかったんだと深い喜びがある。
そして、教会って、そんな私達の中のキリストが見える場所ですよ。私が、自分の勝手に企画した食事会を止められてふてくされた後で、青年会役員たちは金曜日の夜に、私の家の近所のガストにみんな来て話そうと言ってくれました。幹君のみんなのためにしてあげたいという気持ちを傷つけて申し訳なかったと、謝る必要は本当になかったのに、言ってくれました。役員会でも考えたんだけど、今度のクリスマスの食事会とか、幹君にお願いしたり、一緒にしたいと思うよ。こんな私のわがままのために時間と考えを割いてくれた。クリスチャンって凄いな、こんな風に自分もしたいと思ったのです。
エゴが自分を傷つけていくことを私達の魂は実は知っている。なぜこんなに不自由なのか。自由を互いに主張しあって、疲れ果てている。そこで崩れていくもの、それは結局は、自分自身でありま す。ああ、ここから自由になりたい!あなたはもう自由なんだ。
御霊の実
そして22節に申します。「御霊の実」、この実という言葉はおもしろい言葉です。「肉の働き」と、わざわざ対比させているのです。「働き」というのは自分自身ですることです。「実」というのは自然に実ってくるものです。キリストのものになった時に、自分自身の中に自然に、み霊の望む性質が実ってくるんだ。それを信じて、求めて、生きるのだと言うのであります。もちろん、それは、私達が好き勝手やってても自動的に実るという事までは言っていません。でも、これは私達が獲得するものではなく、その約束を信じ続ける類のものです。
あなたは、愛の人になれる。あなたの心に喜びが生まれる。平安がやってくる。そして、あなたは寛容さと親切を、善意、誠実を、柔和で自制をもって示すことができる。ひとつひとつ、説明する時間はありませんが、これらの実はすべて、イエス・キリストのお姿であります。キリストのものになる者は、キリストに似る者ともなるのであります。
われならぬわれの現れきて
私の好きな賛美があります。主を仰ぎみれば、古きわれは、うつし世と共にとく去りゆき、われならぬわれのあわれきて、みずや天地ぞ改まれる。私ではない私がクリスチャンは現れる。主を仰ぎ見れば、今日も約束を信じましょう。(終わり)