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ヨハネ1章35~42節
「来なさい。そうすれば分かります。」(2026年1月11日)
アンデレカード
蕨教会に、アンデレカードというものがあります。アドベントの集会に、誘いたい人を具体的に名前を書いて祈ろうという紙です。この名前のもとになったのは、今日の箇所、アンデレが兄弟シモン・ペテロをイエス様の所に連れて行った場面でしょう。他にも、この福音書で出てくるアンデレは、5千人の給食の奇跡の際に、5つのパンと2匹の魚を持った子どもをイエス様に紹介したり、訪ねに来たギリシャ人を、来週の箇所に出てくるピリポという弟子と共に、イエス様に引き合わせます。彼は、誰かをイエス様のところに連れて行く賜物を持っていた人でした。
そんな彼もまた、別の人からイエス様を指し示してもらったのです。
見たら分かる
今日の箇所、見るという言葉が連鎖しています。35節「その翌日、ヨハネは再び2人の弟子とともに立っていた。そしてイエスが歩いて行かれるのを見て」まずバプテスマのヨハネがイエス様を見る、そして、“「見よ、神の子羊」と言った。2人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。”その後、その弟子の1人アンデレが41節「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて「私達はメシア(訳すと、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。」
次回の箇所で、ピリポという人がナタニエルという人を同じようにイエス様の所に連れて行く時、46節で「来て、見なさい」と言います。アンデレがシモンを誘った時もまさに同じ気持ちだったでしょう。アンデレ自身も、見よ、と師匠だったヨハネに言われたように、兄弟シモン、あなたも実際にイエス様を見てごらん。
実は、イエス様とアンデレの間に交わされた39節の「来なさい。そうすれば分かります」この言葉は、今言った46節の「来て、見なさい」と同じ言葉なんです。イエス様を見たら、あなたにも分かる。
イエス様のところに連れていけばいい
ここで、バプテスマのヨハネも、アンデレも、ピリポも、伝道の仕方は同じです。細かく自分で説明するよりも、イエス様の元にその人を連れていく。すると人は自然と信じていくのです。私はメシアに会ったと言っちゃうのです。
母教会に知り合いを連れてきたことがあります。礼拝が始まった途端に、後悔しました。もっと、事前にプログラムについて色々説明すれば良かった。主の祈りと使徒信条を突然皆がそらんじて一斉に口にした時、その人はビクっとなっていました。その日の聖書箇所は旧約聖書で、難解な箇所でした。普段の先生と違う説教者で、50分くらい話していました。(皆さん、私短い方なんですよ)。礼拝後の報告でまたその日は沢山の人がアナウンスで立って、その時間が永遠に私に感じられました。終わった後、恐る恐る感想をでも聞くと、「来てよかった。何か、少し神様が分かった気がする。」と言ってくれたんです。
イエス様を見る、イエス様のところに連れていく。とても抽象的な言い方をしていますが、要はみことばに触れてもらえばいい。教会に来てもらえたらいい。ルターという人はこう言いました。「耳の中に目を突っ込みなさい」。聖書の言葉が朗読された時、目で見るように耳で聞き、見えない主を見つけなさい。今、私達は、聖書を通してイエス様を見ることができる。はじめに言葉があった、とこの福音書を書き始めた使徒ヨハネにとって、イエス様とはますます、ことばの中にいてくれる方になっていったと以前話しました。今日の場面、見よ、見よ、とかつての先輩や仲間達の言葉を書きつつ、使徒ヨハネは、自分の書く聖書で、同じ主との出会いが読む人に起こると信じている。
また、イエス様は、「2人か3人がわたしの名において集まっているとこには、わたしもその中にいる」と仰ってくださいました。教会は、イエス様が満ちておられるところだとパウロは言いました。百聞は一見にしかず。この礼拝で、この教会の交わりの中に、実際に来て身をおいたら、初めて分かるイエス様の姿ってある。
イエス様に見つめられる経験
じゃあ、聖書読んで、教会に来て、何が分かるのか。イエス様を見た時、アンデレたちは何を経験したのか。
彼らはイエス様のまなざしに見つめられる体験をしたのです。38節「彼らがついて来るのを見て」、42節「イエスはシモンを見つめて」43節「ピリポを見つけて」47節「イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て」。
皆さん、キリスト教信仰とは、イエス様に見つめられる事です。もちろん、信仰とは感覚だけでなく、理性で、神を知ることです。でも、私達が神を知る聖書のことばは、生きていることばです。主は生きて、私にまなざしを向けてくれている。
何を求めているのか
バプテスマのヨハネに「見よ、神の子羊」と示されて、イエス様の方に歩き出したアンデレともう1人の弟子を、38節でイエス様は見て、こう仰いました。「あなたがたは何を求めているのですか」。これが、この福音書の中でイエス様が発した最初の言葉です。その通り、私が神の子羊ですでもなく、私に近づいてくる、あなたの求めは何ですかという問いかけなんです。人は色んな問いを持ってイエス様に近づくけど、イエス様もまた私達に問いかけてくる。
それに対しアンデレは「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊りですか。」と尋ねます。これもちろん、泊まっている場所を単に知りたかった訳じゃあありません。憧れの人にいきなり、私に何を聞きたいのといきなり言われて、「えっと、えっと、どこにお泊りですか、うわ、何で私こんな事聞いちゃったんだろう」イエス様も「変なこと聞く奴だな、来なさいそうすれば分かります」というような質問じゃないんです。自分の質問は、ここで立ち話で終われるようなものじゃない。もしご迷惑でなければ、ゆっくり私と時間を過ごしていただけないでしょうかという当時の先生へのお願いの仕方だったんです。何を求めているのかと言われ、一緒にいたいとアンデレは言った訳です。
アンデレは一緒にいて聞きたい事が山ほどあったはずです。アンデレは、バプテスマのヨハネの弟子でした。フルタイムではなく、ガリラヤに住んで、漁に適さない時期などの短期間、ヨハネに教えを乞いにヨルダン川に来ていた。それくらい真剣な生き方をもとめていた人でした。師匠のヨハネが語る救い主に自分も会ってみたいとずっと思っていたでしょう。色んな事を聞いてみたかった。本当に救い主かどうか、自分の中で確かめたい事もあったでしょう。そもそも何から救ってくれるのか。そして、彼自身の個人的な願いも沢山あったでしょう。
イエス様のもとに留まること
そんな彼でしたが39節について、一緒にその夜過ごした後で、翌日になると、アンデレは、兄弟シモンに、「私はメシアに会った」と報告するのです。どんな会話がその夜、アンデレとイエス様の間でなされたのか。果たして、彼は、心の中にある質問を全部イエス様に話せたのでしょうか。ただ、福音書が書いているのは、彼がその日、イエスのもとにとどまったという事実だけです。イエス様に見つめられながら、彼は時を過ごしました。
何を求めているのか。アンデレはあなたの所に一緒に泊まりたいと言いました。でも、それが、彼が思っている以上に、彼の魂の奥の一番の願いだったのです。イエス様のもとに留まること。イエス様と関係を結ぶこと。そこでこそ私達の様々な疑問は答えていただけるし、むしろ疑問に答えが与えられないままでイエス様を信じる事ができる。イエス様というお方の信頼が増していくにつれ、自分の中のその疑問へのこだわりが消えていく事がある。私達がイエス様のところに持ち寄っていく様々な、これを叶えてほしいという願いさえも、イエス様のまなざしを受け取って、それで、満足することができる。
エウレカの喜び!
だから、アンデレが、翌日、まず自分の兄弟シモンを見つけて「私達はキリストに会った。」と言ったというのは、伝道の使命感に燃えてというよりは、イエス様と過ごした余韻に浸っての行動というのがふさわしいでしょう。この会ったという言葉は、発見した!という興奮と喜びがこもった言葉なんです。ギリシャ語で、エウレカ!という言葉でして、この言葉には有名なエピソードがあります。アルキメデスという学者が、アルキメデスの原理という物理学の法則を発見した時、彼はお風呂に入っていて、ひらめき、エウレカ!と叫んだ。それ以来、この言葉は、学問の世界で、発見の喜びを表す言葉として愛されているんだそうです。
アンデレは、自分が本当に必要としていたものを見つけました。イエス様のまなざしに留まること。「来なさい、そうすれば分かります」アンデレにイエス様は言いました。あなたが本当に求めている物が何なのか、私のところに来たら分かる。
ところで、アンデレ達が、イエス様のもとにとどまったを、39節でわざわざ「時はおよそ第10の時であった」と福音書記者ヨハネは書いています。多くの人は、実は、アンデレと一緒にいた名前の出ていないもう1人の弟子こそヨハネ自身だったのだろうと推測するんです。そうだとすると、自分がイエス様のところにとどまった時間を、書かずにヨハネはいられなかった。エウレカの喜びが、ここにもこもっている。ここから私とイエス様の歩みは始まったんだ。
イエス様は私をどう見ておられるのか
しかし、イエス様に見つめられるという事が、私達にとって単に喜びではなくなっていく事もあるのです。以前、ある方が言っておられました。「先生、私を見るイエス様のまなざしは、私の罪に悲しんでいるように思うんです。ああ、申し訳ないと、いつも思うんです。」確かに、イエス様は、私の真実の姿を、私以上に見えている方です。今の私を主はどう見ておられるのか、そう考えると、その方が感じるような思いに私もなる。
でも、イエス様は、今の私だけを御覧になっているのではないんだな、それが分かるのが、この後に出てくるシモン・ペテロについてのイエス様の言葉です。
アンデレに誘われたペテロががイエスさまに見つめられました。じっと見ると言う意味の言葉です。今回は、イエスさまは、質問ではなく、こんな事を言います。42節「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ぶことにします」
他の福音書では、主がペテロという名前を与えるのはもっとずっと後です。その時ペテロはイエス様を神の子キリストと告白し、主は、その彼に、あなたはペテロです。わたしはこの岩ギリシャ語でペテロの上にわたしの教会を建てますと仰った。ペテロという名前には、この人の信仰が岩のように、生まれてばかりの教会を支えていくというペテロの姿があるのです。
未来のあなたを見つけてくれる
イエス様は、それを、この時点の、出会ったばかりのペテロの中にすでに見つけておられる。
これは、完全に未来の彼の姿です。ペテロの中にイエス様への信仰はありません。会ったばかりなのです。イエス様がペテロと呼んだ彼の性質は、これから、イエス様との繋がりの中で、作り変えられていくものです。今この時点でペテロの中にないものを、イエス様は見つめてくれているのです。
私達に対してもそうです。イエス様は、作り変えられていった未来の私の事を今の私の向こう側に見ていてくださる。そんなあなたへのイエス様のまなざしがあるんです。今のあなたの姿を見て、だから主は悲しまれたとしても、あなたに失望することなど主はありえない。
今の姿しか見ようとしないなら
私達は今の姿しか見ようとしません。自分に対しても、人に対しても。イエス様じゃないから、はっきりと未来の姿はもちろん見えませんよ。でも、イエス様は私は見えていると仰る。希望を持っておられるのです。なら、私達が勝手に、人に自分に失望しちゃいけないんです。ましてや、自分が見るまなざしと、イエス様のまなざしを同じにしちゃいけない。
でも、今のその人しか見れないなら。言うわけです。なんであの人はいつもああなのだろうか。あの人ってああいう人だよね。今できているかどうかでしか判断されない。今、アンデレのように、人を教会に誘えているかどうか。ペテロのように教会を建て上げているか。あの人は奉仕している。あの人は何もしていない。あの人は礼拝に毎週来ていない。でも、今何をしているか、していないかだけで人を見るまなざしにさらされ続けるのは、いたたまれないですよ。そんなまなざししかない教会、とどまりたくないですよ。そんな牧師がいる教会、嫌でしょう。
でも、自分が人をそんな風に見るなら、周りも自分を今何をしているかでしか評価してくれないと思うのは当然です。だから、苦しくても続ける事があるでしょう。人に認めてもらうために奉仕することもあるんです。
でも、イエス様は無理しなくていい、私はそんな背伸びであなたを評価することはしない。代わりに私にはちゃんと見えている。喜んで主に仕え、感動してイエス様を紹介している未来のあなたの姿が。だから、神様の前では、背伸びなんてする必要もない。失望されるんじゃないかと恐れる心配もない。そのまなざしの中でなら、私達、ありのままの今の自分の姿を認めることもできるのです。
それこそ、いつまでも、とどまっていたいというまなざしです。ああ、あの人をここに連れて来たいと、私達が思うまなざしです。
イエス様のまなざしに留まろう
私達は変わっていける。私達は人に自分に期待できる。このまなざしにとどまった時に。イエスさまは、この後、仰ることになります。今日のとどまるという言葉を使って。「わたしにとどまりなさい、そうすれば豊かな実を結ぶ」
だから、今日も、イエス様は「来なさい、そうすれば分かります」と招かれる。あなたの魂に必要なものは何か。主が私をどのように御覧になっていてくださるか。エウレカ、また私達はこの愛に気づくことができます。(終わり)