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ヨハネ5章31~40節
イエスを証するもの(2026年7月5日)
イエスを証する方
安息日に、イエス様がベテスダの池の病人を癒した事に端を発した論争の場面が今週も続きます。イエス様は自分を取り囲むユダヤ人達に言います。31節「もしわたし自身について証をするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません。」証言、真実、これは法廷で使う言葉ですから、そこからもこの時の会話の空気感が伝わってきます。ユダヤ人達とこの福音書が呼ぶ宗教指導者達は裁判官のように、イエスを裁いているつもりなのです。今、問題となっているのは、イエスが神を父と呼び自分を神と等しいとした発言です。そして18節ですでに彼らはイエスを殺そうと思っていたので、実際にはイエス様が何と言おうが彼らの判決は決まっていました。
話を聞く前から、イエスが神だなんて受け入れる気がない。心が開いていない相手に、私達も証をする時があります。どんなに楽でしょう。イエス様について私達が話したら、いつも待ってましたその話聞きたかったとなったら。私一昨日、駅前で賛美してきたんです。路傍伝道やりたいんですよねと、他の先生に話したら、じゃあ一緒にやろうよ。いつやる?結局実現して、1時間くらい歌ったんです。私と通行人との間に透明な分厚い壁がある気がして、自分の歌う歌詞がその壁に当たってゴツンと跳ね返るもうその音が聞こえてくる気がする。びっくりするくらい汗が噴き出てきました。でも、他の先生がいてくれたのに支えられ、次第に喜んで賛美ができたのです。
父が証してくれる
イエス様もそれより厳しい状況でも勇気を失わなかったのは、自分の言っている事が間違っていないと証明してくれる存在がいたから。イエスは神だよと同じように言ってくれる存在です。だから、心強かった。32節「わたしについては、ほかにも証をする方がおられます。そして、その方がわたしについて証する証言が真実であることを、わたしは知っています。」では、それが誰かというと、「また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。」他でもない父がイエスが神である事を証していると。
でも、これはユダヤ人にとっては人を食ったような言い方に聞こえたでしょう。さらに冒涜を重ねたように思えたでしょう。ユダヤ人からしたら神は自分達の仲間である預言者と聖書を通して語られる。しかしイエスお前についてそこから聞いた事など私達にはない。
聖書による証
しかし、イエス様は真向から言うんです。39節途中「その聖書は、わたしについて証しているのです。」
39節「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。」
ユダヤ人は実によく聖書を研究していました。成人男性なら、創世記から申命記までの旧約聖書の最初の5つの書簡を全部暗記していたんです。そしてここには永遠のいのちに至る生き方が書いてあると1つ1つの教えを大切にしていました。
ですが、彼らが見落としていたのは、聖書とはイエス様についての証の書だという事でした。ここでイエス様の念頭にあったのは、聖書の特にこの預言、あのイザヤ53章の苦難のしもべとは私の事だという事かもしれませんし、あるいは、聖書全体の事だとも言われます。どこを読んでも、私をあなたは見つけることができる、聖書は、あなたがイエスと出会うために書かれたものだ。
聖書は「わたし」について証する
ユダヤ人達は、あんなに聖書を研究したのに、そのことに気づけませんでした。逆に言うと、細かな所は全然まだ分からなくても、聖書を通して人はイエスと出会えるって事です。私達こんな分厚い、横文字だらけの、別に体系だてて教科書のように書かれている訳ではない本を読んで誰が分かるんだろうと時に思う。教会学校の子からしたら、昔のイスラエルの王様の話聞かされて何になるのかと思ってるんじゃないか。嬉しいことがあったんです。4月から、教会学校の小学科にあがった子のお父さんが、幼稚科みたいに小学科でも親も一緒に聖書の話聞いてもいいですかと言ってきてくれたんだそうです。聖書は時代を越えて人々を捕らえ続けています。
聖書を読むって、不思議な体験なんです。聖書の中に、私について書いてあるという事に気づいていくんです。聖書とは、イエスについて証する書であると共に、あなたの真の姿について証する書物です。自分も知らなかった、汚い、罪深い自分、ああこれは私の事だと、聖書の言葉が、聖書の人物の赤裸々な姿が自分と重なる。そこに、私のために、イエス様が救い主としておられるという事が見えてくる。そういう読み方できるようになると、私達聖書のどこを読んでも、イエス様を見つけることができます。そしたら、イエス様が37節「わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。」と言う通り、確かに聖書を通して父は証しておられたと分かるのです。
ヨハネを喜んだユダヤ人達
そしてもう1つ、当時のユダヤ人達が、神が人に語られる手段として信じていたのが預言者でした。そこでイエス様も、バプテスマのヨハネの事をユダヤ人達に思い返させます。ヨハネとはイエス様が活動を開始される前に、人々に悔い改めを求め、ヨルダン川でバプテスマを授けていた人物でした。そして、「私の後に来られる方が来る」と、イエス様が現れた後は見よ、世の罪を取り除く神の子羊と人々に紹介しました。この福音書でも、彼は、神から遣わされた人で、証のために来た人だと冒頭で紹介されてました。彼もまた父による証だったのです。
ただ、そのヨハネについてイエス様は不思議な事を言います。35節「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。」イエス様を迫害するユダヤ人達は、一方ではヨハネの事を歓迎したと言うんです。ヨハネはイエス様を証していたはずなのに。そして結構厳しい悔い改めを迫っていたのに。この態度はなぜでしょうか。
まず1つは、イエス様が彼らの目の前に現れるまでは、彼らにとってリアリティがなかった。そしてヨハネの言う神への悔い改めそのものは、別に彼らにとってなじみのないものではありませんでした。それを、ヨハネはさらに徹底して、そのしるしにバプテスマを授けていたことが新鮮でしたが、イエスについての証を抜きにしたら、ヨハネがしていることは、聖書に書いてある良い生き方を実践している立派な人でした。ヨハネが言っていることは、彼らにとって良い話でした。イエスについての証を抜きにしたら。でもこのイエスが、彼らの前に現れて、ヨハネもこの方だと言った途端に、彼らは拒み始めていったんです。
自分が変わるのが怖い
イエスの事を考えなければ、聖書の話は良い話として聞ける。悔い改めも、ごめんなさいと言って考えを改める事だと思っていられる。しかし、今ユダヤ人の目の前にいて、彼らを見つめてくるイエス様が現にいる。聖書を通して、私を見つめてくるイエス様がいる。その時、イエス様が言いたいことは、もっと深いところで、私が根本から変えられる必要があることだと分かってくる。神が言っている悔い改めとは、自分がちょっと意識して良い生き方をすれば良いという次元の話ではない。自分は自分の永遠のいのちのために、何ひとつ良いことができない。だから、先週イエス様彼らに私の言葉を聞いて生きる道があるんだと示されたのです。良い人だと思っていた自分を罪人と認め、イエス様の元に行く必要がある、ヨハネが証したこのイエスが私に求めているのはそういう事なんだと気づいていく。
40節「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」なぜでしょう。私達、変わりたくないからです。揺さぶられたくないんです。考えを変えたくないのです。今の生き方がいいのです。
聖書を通して人はイエス様と出会います。だからこそ、この本は今も人の心を捕らえます。しかし、そのイエス様と本当に向き合うことが怖くなって、離れていく人もいます。
このユダヤ人達も、どんどんイエス様が彼らの中で具体的になっていくにつれて、どんどん離れて行きました。こんな救い主など必要ない。そしてやがてイエス様を彼らは十字架にかけるのです。
あなたが救われるため
あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。イエス様はその現実をどれほど悲しんだでしょう。聖書を良い教えと思ってくれても、私そのものを受け入れてくれない。そんなにも、どうしても、あなたはあなたのままでいたいのだね。イエス様はこの時もバプテスマのヨハネの事を彼らに話した際34節「わたしは人からの証を受けませんが、あなたがたが救われるために、これらのことを言うのです。」私のためじゃない、あなたが救われるためにヨハネの事を持ち出すんだよ。ヨハネという存在を送ったのはあなた達のためだったんだよ。
しかし、神による証は、ユダヤ人がイエス様を拒んで十字架にかけても終わらなかったのです。36節「しかし、わたしにはヨハネの証よりもすぐれた証があります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされた事を証しているのです。」地上にいる間もイエスの行ったわざとは、いのちを与えるわざでした。死にかけた子どもが癒され、寝たきりの人が起き上がることができた。それはやがて、そして父がイエス様をよみがえらせるというわざを指ししめしたわざでした。イエス様は十字架の上で、自分をかつて拒んだ人達の罪も背負い、彼らがいのちを得るためによみがえってくださったのです。
そしてこの救いのみわざを、今度は人が証していきました。使徒の働きでペテロがエルサレムにいる人達に語った。そこからずっと、人の証は鳴りやまないのです。イエス様、でも、人からの証があるのは、ご自分のためではないと言っていた。「あなたがたが救われるために」たとえ、主を拒んだ人達のためにも、主は証をまだずっと送り続けている。変わらずにある聖書と、人の証を通して。
私達の証する意味
私達はだから、その人達のところに引き続き遣わされているのではないでしょうか。
先生、家族に福音を伝えるのが一番難しいですね。自分の欠けを全部知っているから。ある方が言っていました。この前、子どもに理不尽に私が怒ってしまい、パパの話なんて聞きたくないあっちに行けと涙ながらに言われてしまいました。ああ、こういう事でも、私からの証が届かなくなってしまうのかと怖くなりました。親にイエス様を伝えようと思っても、それよりも祐希あなたはもっとこれをちゃんと直しなさいと、親から私に注意される関係性が出来上がっている中で難しさを覚えます。自分のしたことのせいで、どうしても個人的に心を通わせるのが難しい相手もいます。その意味では、私の事を知らない人に向かって賛美しているよりも難しい、でも証したい相手が私達1人1人にはいます。
いつも話せるわけではない。でも、私が、なおも、信仰を持つ者としてそこに遣わされている事実、それは、神が、あの人が救われるために、神がその人の救いを願っているという事の証拠なのではないでしょうか。
イエスのもとに行こう
私達今何ができるでしょうか。私達がまず、聖書を読んで、イエス様の元に行くことではないでしょうか。
クリスチャンでも、神様と向き合う事が時に怖い。聖書をああ私のこと言われているとそういう読み方をしたくない。神の前に本当に悔い改めるべき自分がいること、そのためにイエス様が死んだほどの自分がいることを認めたくない。
でも、悔い改めとは、イエス様のもとに帰ることです。実は何も怖いことではありません。有名なルターの言葉で、キリスト者の一生は悔い改めの日々である。それは暗い顔をして生きていくことではなく、むしろ喜びに溢れている。なぜか、イエス様のもとには赦しがあるからです。
悔い改めとは反省とは違います。許されることです。人は、反省してもあなたを許さないかもしれない。でも、イエス様は、赦すという。そして、前を向かせる。その体験を私達していくなら、この聖書は私達にとって、変わらずにイエス様についての証に溢れている。
そんな私達を今日もこの世界に神様は送り出したいのです。人々が救われるために。
認めていいのです。私達は決して良い人ではない。相手が知れば知るほどそうでしょう。でも、私達が証するのは、良い自分ではない。イエス様なのです。どれほど汚い部分を相手に知られても、私のうちで赦しが輝いている。それが私を生かす。私達はイエス様を見せられるでしょう。
ユダヤ人達は、聖書を暗唱していました。何が書いてあるか分かっていたのです。でも、38節で「そのみことばを自分たちのうちにとどめていません」。知っていることと、留まっていることは違う。聖書に留まるとは、今日もイエス様のもとに行くことです。自分は大丈夫だではなく、今日も赦しが必要だ。今日も励ましが必要だ。今日も主よ語ってください。その時みことばは知識ではなく、私のいのちになります。イエス様は、今日もまた、ご自分のところにまずあなたが来てほしいのです。 (終わり)



