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ガラテヤ6章1~10節

集まって励まし合おう②(2026年5月10日)

集まって励まし合おう

今年の教会のテーマ「集まって励まし合おう」励ますって具体的にどうするのか、ただ集まるだけでいいのか。でも私達ただ集まるだけで、こんなにも励まされている現実がある。

4月の前半は心が重い事が続きました。だから木曜日の婦人会定例会、お楽しみ会にしようって役員会に私言ったんです。ボッチャっていう球を転がすゲームやりましょう。当日5分前になっても、役員さんと1人ぐらいしかいなかった時は、皆ボッチャやりたくないのかなと思いましたが、続々と集まって大盛り上がりでした。意外な人が結構大胆に勝負をかけてたりと、冷静に後ろで戦略を練っている人達がいたりと色んな個性が見えて楽しかったです。もちろん、奨励もやりました。詩篇の都上りの歌に、見よ、兄弟達が1つとなって生きることは。なんという幸せ、なんという楽しさだろうという箇所があります。年に数回、巡礼の時に、エルサレムに集まった同胞ユダヤ人、その期間、信仰の家族が共に生きる喜びを彼らはかみしめました。そして、また彼らはそれぞれの場所へ戻っていくんです。また会う時を楽しみに。クリスチャンの交わりとは、地上で許される期間、神が私達に与えてくれた恵みだ、そんな話をその時したのです。

重荷を負う事に疲れ果てる

でも、教会の交わりに、来ることが疲れてしまうという事もある。

9節で、「失望せずに善を行いましょう。」とあります。これは、善を行うのに疲れ果ててしまってはいけない、とも訳せる言葉です。逆に言うと、疲れ果ててしまう事がパウロの時代の教会員にだってあったという事でしょう。その後の10節にですね、「ですから、私達は機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。」そういう意味では、教会で私達ただ集まるだけじゃなく、お互いのために仕えあっていく。そしてそれを神様のためにしていくのです。決して、教会で、奉仕を担っている人が、色んな人に心を配ってくれる人が、別に平日他の人より余裕がある訳じゃない。何ならむしろ忙しかったりする。でも神様が自分にしなさいと言っておられると、信仰によって応答しようと思って引き受けた。

しかし、それが重く感じる時がある。2節で「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります」。重荷なんです。教会の中で善を行うことは、決して軽い、楽な事ではない。それをパウロも分かっています。善を行う事の中には、1節にあるように、人の過ちを正してあげる事も含まれます。指摘した後も、そこにあるように自分の態度は柔和だったか、3節にあるように、自分を何者かのように思ううぬぼれがなかったか、色々考える時間もしんどい。

善を行う事を、そして真面目な人ほど背負い過ぎてしまう。自分がやらなければ。でも、その結果、思う。重荷を負うのは互いに、なはずなのに、気が付くと自分だけが重荷を負っている気がする。そしてそれを周りも自分がするのが当たり前のように思っている気がする。あの人は自分達と違って強い信仰者だから、あの人に頼めば引き受けてくれるはず。

私覚えている心についてのイラストがあるんです。一人の女の子が背中に一本の矢が刺さって泣いている。周りも、彼女の事を心配して彼女の後ろに立っているけど、実際にその子を慰めてあげているのは1人の真面目そうな女の子1人だけ。でも、その慰めている方の女の子の背中には、矢が何本も刺さっている。でも誰もそれに気づいていない。イラストのタイトルは強い人、弱い人でした。

重荷には種類がある

私思うんです。集まって励まし合おうというテーマ。こっちで交わりに励まされる人がいて、こっちでそのために仕えて辛い思いをしている人がいるとしたら、それで1年終わるのは、なんか違う。じゃあ、集まる事が誰にとっても励ましになるために、どんな心持ちが私達全員に必要か。5節「自分自身の重荷を負う事になるのです。」

この5節の重荷と先ほどの2節の重荷は別の言葉です。5節の重荷は、単なる荷物のことで、2節の、互いに負い合うべき重荷は、背負いきれない重荷という意味の言葉。それが意味するところは、例えば、ここに2つの荷物が両手にある。こっちは、自分が背負うべき重荷だから人に渡してはいけない。でもこっちは、むしろ、人に助けを求め、背負ってもらわないといけないもの。でも、それを渡した後で、今度は誰かの重荷を背負ってあげる。で、それは、こことここだけの関係ではなく、色んな人が協力しあって、分担して、皆の重荷を支え合っていく。そうすることで、私達は、自分の責任で自分の人生を生きる経験と、励まし合って生きる事の喜びを両方経験できるんですね。

私達の交わりが辛くなるのは、色んな意味でこの2種類の重荷をごっちゃにしてしまう事にあると思うんです。ある人はこれを全部誰かに渡したい。あるいは逆に全部引き受ける事が聖書が言っているよいことだと思ってしまう。でもその人にも自分の重荷があるんですから、絶対に遅かれ早かれ疲れてしまいます。そしてこっちは、積極的に人に背負ってもらっていい、むしろそれが良い事なんだという事に、気づいてほしいんです。

1人で神の前にいること

じゃあ、具体的に、どれが人に任せていいことで、自分が背負うべきことなんだ。ひとつ絶対に言えることは、あなたが一人神の前に立つことは、絶対に人に任せられない、あなたの責任です。

私、最近、素敵な本との出会いがありました。昔買ったボンヘッファーの共に生きる生活という本を読んだのです。ああ、今年の教会の方針にぴったりだなあと、各会とかで取り上げたいなと思いました。ボンヘッファーは、去年映画にもなりましたが、第二次大戦下のドイツで、ナチスに抵抗して最後ヒトラー暗殺計画に加わった牧師です。この本は、彼が、牧師を養成する神学校で、指導者として学生と共同生活を送った経験をもとに書かれたものです。1937年に、国家秘密警察にその存在を知られて、この共同生活は終わる事になりました。しかし、それがこの本を彼が世に出すきっかけとなったのです。クリスチャン同士の交わりを励ます名著として今も多くの人に愛されています。

そこに、「ひとりでいること」という内容が、一章まるまるあるんです。交わりがテーマナのに、彼は言うんです。一人で神の前に立てない人は、共同体においても本当には生きられない。ああ、これは今年の私達にとって大事な事だと私は主されました。神の前でひとりでいることがないと、私達お互い集まっても励ましにならない時があるんだ。

神様だけが背負えるもの

なぜなら、1人でいる経験をしてはじめて、正しく交わりの中にいる事ができるから、そう彼は言うんです。私達の経験する次元で言っても、ずっと交わりの中にいると、お互い不満を感じた時に、逃げ場がない。けど、ちょっとそこから離れてみて、交わりの中の自分を顧みることが私達できますよ。

そしてボンヘッファーがこの本で言っている1人でいることとは、孤独になるということではなく、御言葉と共にいる時間だと言うんです。静まり、祈り、神の言葉を聞き、神の前に立つ。そうする事で初めて私達は、あの事を人に期待するのは間違いだった、背負わそうとしてはいけなかったと気づくことができるのです。

なぜなら、イエス様が、それは私があなたと一緒に背負うものじゃないかと言ってくれるからです。私は単にあなた自身が背負いなさいと言っているんじゃない。私と一緒に背負おうって言っているんだ。教会の交わりは素晴らしい、当然だ、だって私がこの地上にあなたのために与えた交わりなんだから。でも、重荷には2種類あるように、励ましも2種類ある。集まって人から受ける励ましと、私とあなたという2人きりの中で、私から直接受け取れる励ましがあるんだ。

牧師の私自身がそんな一人神と過ごす時に受ける励ましも知っているから、だからあえて具体的に今は手を差し伸べない勇気を持たねばならない時があると感じています。怖いです。幹先生は冷たいと、他の人に言われるんじゃないか。そうやって、言われるのが怖くてなんでもやろうとすることがある、できないのに。あるいは、でも本当に自分に愛がないんじゃないかともずっと悩む。でも、その方がしばらくして、神様が私に教えてくれましたと、お祈りありがとうございました。そう言ってくれると、その人をこの時ひとり神様の前に立たせて、本当に良かったと思う。

御霊の人として仕えていく

 ひとり神の前に出れる人には、御霊が働きます。22節「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私達は、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」

人がしてくれる事ではなく、神が自分にしてくれる事にひとり目を留め、そこに喜びがある。その上なら、交わりの中で人が支えてくれる事を感謝できるのです。もっとこうやってほしいではなく、心から、ありがとう。そして受け身ではなく自分も神様に応答したい。自分にできる親切を、他の人に今自分にできる誠実を尽くしていく時に、共に生きることができる御霊の実りが私達の顔に柔和さとなって現れます。

この柔和さについて、パウロは、1節で柔和に相手の過ちを正す際、「また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」とあります。指摘する時でさえ、自分もまた、誘惑に負けてしまいそうな存在だと自覚しながら、相手の罪を見つめる、それが柔和さ。自分を何者かのようにうぬぼれない。自分も相手と同じくらい弱さと欠けをもった人だと認める。

助けが必要ない人なんていない

なぜ、自分の抱えている重荷を渡せないのか。3節「だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。」パウロが警告するのは、心がこわばり、自分の本当の姿を自分でも見えなくさせる、うぬぼれです。自分は人の助けが必要ない。

でも、それはうぬぼれだと言われると何だか心が痛みます。重荷を人に渡せないのは、私がやらなきゃ他の人が大変だから、責任感で頑張ってきたと思うからです。

でもね、パウロが言うのは、人の助けが必要ない人なんていないんだよということです。そして一緒に生きる人同士は、重荷を負い合うことにおいて対等です。ある人の話です。いつも自分が色々と助けてあげている友人がいた。何かあるといつもすぐにその友人から自分に連絡が来る。私はこの人に仕えているんだと思って接していた。でも、あるとき、その友人がこう言ったそうです。「いつもありがとう。この前、他の人から、あなたが今大変って聞いたよ。私には言わないでいてくれたのね。ごめんね、そんな中電話して。もし良ければ、私もあなたのために祈らせてもらっていいかな。」はっとしたんだそうです。この人から自分は支えてもらう事などはないと思っていた。相手の事を友達と、自分自身言っていたのに。うぬぼれがどこかにあったのだと思いますとその方は言ってくれました。

 私達、1人で抱えて疲れ果て、周りに失望する時、誰もあの時助けてくれなかった心をこわばらせる時、でも本当にそうだったんでしょうか。あなたを心配してくれた人達はちゃんといたのではないでしょうか。背後で祈っていてくれた人はいたんじゃないでしょうか。

何かできることがあったら言ってねという声は本当になかったのか、でも自分1人でやった方が楽だって選んだ自分だっていたのかもしれない。

強い人と弱い人、そんな2種類の人が教会にいるのではありません。いるのは皆弱い人です。同時に皆御霊の人です。私達、御霊があるから、どんなに弱くても、相手を励ますことができる。あなたのその重荷を他の人も負ってあげる事ができるんですよ。例え、あなたがしている事と同じ事が周りにはできなくても、あなたの傍にはあなたを思うそんな家族がいます。そして、全ての重荷を背負わなくていいから。どうか、心を柔らかくしてほしいのです。

柔和に繕ってくださる神

 集まって励まし合うために、逆説的ですが、今年度私達、ひとり神の前に立つ時間を大事にしたい。そして心を変えてもらいましょう。1節の「柔和な心でその人を正してあげなさい」という正すという言葉は、網の破れをとりつくろうという意味です。やったことはありませんが、腰をおろして、網を隅々チェックしながら「あ、ここも破れている」と針と糸を使って、こつこつと細かく柔らかい手つきで直してあげる作業。根気がいるんです。時間をかけます。細やかなところに気を配ってあげるんです。

イエス様というお方が、そんな風にして私の心の破れを、根気よく繕って直してくださっている事を知りましょう。私の心の、ああ、こんなところもうぬぼれがある、心をこわばらせている、人任せにしてるところがある。そして、教えてくれるのです。自分の弱さを、周りの助けを、そして、あなたにも、誰かの重荷を負うことができるんだと。