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へブル10章19~25節

            集まって励まし合おう(2026年4月)

私達が集まれる理由

今年の一般活動方針を井上兄が書いてくれました。2階入り口に飾ってあります。「集まって励まし合おう」聖書箇所はへブル10章23~25節です。でも、調べていくと、ああ、これは19節から一緒に学ばないといけないと思ったんです。なぜかというと、実はもとのギリシャ語で、この19節から23節までが長い1文なんです。そしてその文章の流れを見た時に、「集まって励まし合おう」という勧めをできる理由、根拠がその前の19節から21節に書いてあるんです。理由その1は19節「私達はイエスの血によって大胆に聖所に入ることができる」から理由その2、20節「イエスがご自分の肉体という垂れ幕を通して、私達のために、この新しい生ける道を開いてくださったから」理由その3、21節「私達には、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから」。だから、22節「神に近づこう」23節「希望を告白しよう」24節「互いに注意を払おう」。そして、「集まって励まそう。」そういう文章なんですね。

神が近くなってくれた

19節から21節の言葉の背景には、ユダヤ教の神殿の礼拝があります。神殿の聖所と呼ばれる所に入ることができるのは祭司だけでした。そして、垂れ幕によって仕切られた至聖所と呼ばれる最も聖なるところには、年に1回、大祭司しか入ることができなかった。当時、神様と人の間には距離があったんです。それは、聖なる神に対して、罪を持った人間が、近づける限界を示していました。でも、その距離が、イエス様によって取り払われた。十字架で流された血、捧げられた主の肉体を通して、誰もが直接神に近づける、新しい道が開かれました。そして、イエス様は祭司として、私達と父なる神との関係を取り持ってくださる。

つまりこの19節から21節を一言で言うと、「イエス様のおかげで今神は私達にとって近い。」あなたたちもこの神様に近づこう。希望を告白しよう。集まってはげまし合おう。

集まらなくなった人達

でも、神が近くなったなら、どうして私達、あえて集まる必要があるんでしょう。だって、今、私達は、どこでも、祈ることができるし、自分で聖書を読んで神と交わることができる。別に教会は、旧約の神殿ではないから、この場所に集まらなければ礼拝ができないという訳ではないのです。だったら何で教会に来る必要があるのでしょう。それぞれが神に近づいていけば、それで十分ではないでしょうか。

実際に、25節に「ある人達の習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず」とあります。この手紙の宛先の教会で、集会に来なくなった人達がいたというのです。そして、来たり来なかったりという状態から、来ない事がもうその人達の習慣になっていたのです。

どうして来なくなったか、でも理由は書いていないからわかりません。だから、決めつけるのは良くないなと思います。来たくても来れない。その事で自分自身苦しんでいる。周りが想像し切れない事情がある人もいたでしょう。病気で来ることが出来ない人もいたはずです。私達の中にもいるその人達を、今年の教会の方針が置き去りにすることがないようしたい。私達の方が会いに行って励ますという事もしていきたい。

動揺せずに希望を告白し続けるために

その上で、お互いこの場所でまた会える事を祈っていきたい。そして実感したいのです。集まること、それは私達の信仰にとって励ましだと。なぜかというと、せっかくの神の近さは、1人でいると見失ってしまうからです。

この手紙は、ローマにある教会に充てて書かれたと言われます。そして、年代は分かりませんが、おそらく迫害を経験していた。キリスト教はローマに認められていない宗教でしたし、クリスチャンは社会の中で圧倒的少数派でした。職場にも学校にもほとんどいない。日中、自分の信仰が全く関係のないように見える世界で生きていると、どんな人だって、神様という存在が遠く感じます。でも、教会の交わりに戻ってくる時、ああ私以外にも神様を信じている人がいる、信仰の共同体に身を置く時、神の近さをもう一度確認できるのです。

そして、23節の「約束してくださった方は真実な方ですから、私達は動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。」これは、実は、どんな希望を持っているか、教会の信じている事が、今も私にとっての希望だと告白するという意味の言葉です。社会の中で、私達が動揺してしまうのは、私の希望とは何か、その確信が揺らぐことです。仕事が順調に進む事、子どもの将来、未来の展望、それが私にとっての一番の希望じゃない。この礼拝の場で聞こえてくる信仰の言葉、祈り、賛美の歌詞、みことば、これが私の希望だ。共に礼拝を捧げる存在に囲まれて、もう一度、私もアーメンと、賛美の後に祈りの後に告白する。この場所に身を置くからこそ、浸ることのできる神様の近さってあるんですね。

祈りもそうです。確かに、私達いつでもどこでも祈れる。でも、祈祷会で、あるいはクリスチャンの交わりで、一緒に祈る時にようやく祈れたりするものです。

互いに注意を払おう

そして、教会は、24節で「愛と善行を促す」事ができる交わりだとこの手紙を書いた人は言います。促すというのは、強い言葉でして、刺激するという言葉です。それは自分が他の人の成長に何か貢献できるという事です。同時に、相手の存在が、自分の刺激になる。そのためには、24節には「互いに注意を払おうではありませんか」とあります。これは、じっくりその人に注目するという事です。その人の事を良く考えるとも言えます。つまりお互いに近づきあっていくのです。そして信仰の刺激を受け合っていく。

私が初めて教会に行った時を思い出します。教会の外で信仰を持った私は、クリスチャンなら教会に行かないとと思って、吉祥寺の教会を訪ねました。すると、もう皆が歓迎してくれて、あっという間に大勢の人に私の名前を覚えてもらいました。こっちは、全然名前が覚えられなくて大変だったのですが。神様に近づこうと思って教会に来たら、予想外に、そんな距離の近い交わりが私に与えられたのです。最初は私だって戸惑いました。私、人見知りですから。礼拝を終わった後、いつも私には選択肢がありました。階段を下りてそのまま帰るか、人が集まっている輪の中に入るか。そういう人の気持ち、私は凄く分かります。

でも交わりに勇気を出して飛び込んで、おかげで私、沢山の刺激をもらったなと思うのです。聖書の言葉を適用する、つまり具体的にどう自分の歩みに生かすか、その実例は、教会で出会う人達の中にあるんです。どんな事を考えてこの人は奉仕をしているか。クリスチャンとして社会人をするどんな大変さがあり、どうやって神様に乗り越えさせてもらったか。一緒に祈る時、ああこの人の祈り、良いな。祈りの言葉を真似ていく。

ここには、そんな宝が沢山あるのです。今年度、ここで、より色んな人とより深く交わってみたい。

近くに生きることの難しさ

しかし、一方で人と近い距離で交わるということは、面倒くさいと感じることもあります。この関係性が、自分が神に近づくことのむしろ妨げになってる気さえする時があるんです。

私は青年時代、定期的に教会の交わりが面倒になりました。教会って、職場よりもずっと多種多様な人が集まってます。普段生きてたらきっと互いに話さないような人もいるんです。その人とも、思い遣り合いながらやっていくというのはまあ、色々ありますよ。私は結構やる気に溢れていて、海で青年達呼んでバーベキューを開催したんです。全部準備して、イタリアンのお惣菜なんかも私用意して。未信者の友達を連れて来た人もいて、やって良かったと思うんです。でも、後で教会で問題になったんです。Facebookに上がったBBQの写真に幹が上半身裸で映っている、風紀的にいかがなものか。何かやるにしても、色んな意見があった。

そしてもう1つ私嫌だなあと思ったのは、私の人間関係のトラブルを、なぜか教会の人皆知っているんです。妻から言わせると、あなた教会の色んな人に言ってたじゃんとのことなのですが、でも、私が絶対にそれを話してない婦人から、教会ですれ違う時に「幹君・・・祈ってるね」と声を掛けられた時、え、どこまで広まってるのと、自業自得ですが怖くなりました。そして、教会には頼んでもないのに、アドバイスをくれる婦人とかもいるんですね「幹~、落ち込むなんて信仰が足りないのよ。」と言ってくれるのです。

ああ、面倒くさい。そういう時は、私は、礼拝が始まるギリギリの時間に来ました。当時、オンライン礼拝があったなら、私はそんな理由でそれを選んでいたと思います。

近くにいてくださるキリストを思い出せる

何で、教会の交わりって、時に面倒なのか。でも、思うのです。それは一人でいるときには見えなかった自分の姿に気づけるためではないでしょうか。ああ、自分ってこういう者なのだと。

人と一緒に生きる時に、私達の罪は姿を現します。周りが私の願うようにしてくれない、でも結局それって自分のわがままじゃないだろうか。そんな自分をよりによって教会という信仰の現場で、思い知らされるからこそ、私達はまじめにその罪を信仰の問題として向き合えるんじゃないでしょうか。

そして、その時にこそ、思い出せるのではないでしょうか。神は、近くにいてくださる、ということを。教会の中でも愛せない自分、わがままな自分、そんな私への神の赦しが現実になります。ああ、私のこの罪も神様に許されたんだというのは、人と一緒に生きる自分のどうしようもない現実の中でこそ受け取れるのではないでしょうか。

イエス・キリストは、私たちの現実から離れたところにおられるのではありません。21節「また私達には、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、」神の家、教会、その関係の近さの中で起こる様々な事を、神の前に私達が持って行ける、そのための大祭司としてイエス様はいてくれるのです。1人で礼拝していたら、気づく事さえない、人と近くで生きるからこそ生まれる色んな想い。それを神が私の心に触れてくださって変えてくださる時、人の心を神は変えるんだ、それが頭で知っている事ではなく私の体験になります。

集まって励まし合おう、今年それを私達目指せるのは、そんな風に近づいてきてくださる神が私達にはいるからです。

イエス・キリストのことを思いながら

だから私達集まることをやめない鍵は、私達の間にいる神を近くに覚えていく事です。今日の、互いに注意を払うということばは、相手の事をよく考えるという意味だと話しました。でも、このへブル書の著者は、同じ言葉で、イエス・キリストのことを良く考えていなさいと言うのです。そしてぜひこの手紙読んでみてください。今日の10章の集まるという勧めの前に、ここまでずっとひたすらにイエス様の事を考えてきていたのです。

この手紙は、礼拝の説教が元になっていると言われます。皆でイエス様を見てきた、さあ、今度は周りを見渡さそう。ここにいるお互いに注意を払おう。

青年時代、人疲れした私を癒してくれたのは、いつも礼拝でした。礼拝ギリギリに来て、受付の人にも最低限の挨拶をして、席もちょっと普段よりも後ろの方に座りました。そんな自分に寂しさを感じながら、でも、そんな日もイエス様は私に近づいてくれました。賛美の中で主の臨在に触れられました。この信仰が私の希望だと改めて思い出しました。当時の先生の語るヨハネ福音書のイエス様は、サマリアの女に近づき、目の見えない人に近づき、死んだラザロのために涙し、弟子達のために最後の晩餐の前に足を洗ってくださいました。先生は、私達もまたこのイエスに従っていく弟子だと良く語られていました。祝祷が終わり、報告の時間、イエス様から促しを私は良く受けました。あの人達に今度は、あなたも近づいていってほしい。私達が人に近く生きたように、互いに近く生きてほしい。そうやって集まりにとどまった経験が私には何度もあります。そんな礼拝がしたい。この後、集まろう、励まし合おう、そう皆さんを励ませような、イエス様を皆さんがじっと考える事ができる説教がしたい。

集まることをやめさせたくない神様

そして、また人の輪に戻っていった時、私の事を心配してくれていた周りに気づけたのです。

久しぶりに礼拝前の時間教会に行くと、婦人達に呼び止められました。「幹、あんた最近元気ないって、皆心配してたのよ」。ある時は、何で私の抱えたトラブルを皆知っているんだろうと嫌だったあの近さ。でも、その時は、嬉しかったのです。私という1人がいなくなったのを気にしない教会の交わりじゃないんだ。

何よりイエス様が、私が交わりから離れていってほしくなかった。集まることをやめさせたくなくて、近づいてくださったのです。

集まって励まし合おう

 25節「ある人達の習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」その日が近づいている、キリストの再臨が近づく時、この世界は悪くなり、多くの人の愛が冷めると聖書にはあります。関係が希薄な時代になっていると言われます。昭和の会社は、ずっと面倒を見るという家族的な繋がりの深さがあったけれど、今は違うと言われます。町内会の付き合いもありません。大勢の親戚で集まることも少なくなったそうです。面倒くさい事が減った。でも、近くで生き続ける事で得られる喜びも減った時代にあって、私達は、集まり続けるのです。その時、見つけることができる励ましが、神の近さが、確かに、ここに、教会にはあるのです。(終わり)