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ヨハネ20章24節から29節

         私の主、私の神(2026年4月5日 イースター歓迎礼拝)             

疑い深いトマス

十字架の死を越えて、イースターの朝、イエス様はよみがえられました。そして、弟子達に会ってくださったのです。挫折と後悔の日々は終わりました。19節によれば、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」。

しかし、24節「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」仲間の中で1人だけ会えなかったトマスがいた。だから25節「そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。」一緒に喜んでくれると思ったのに。「それ本当にイエス様だったの?釘の跡に指突っ込んでみた?してないなら本当か分からないよ。特殊ペイントかもしれないじゃん」。

疑問に思うことの大切さ

 ここから、ヨーロッパでは、トマスのように疑い深いな、ということわざが、色んな言語で存在するんだそうです。しかし、神様を信じる上で、疑うという事の全てが悪いわけではありません。

初めて教会の礼拝に来た方が、終わった後、聖書について色んな疑問を私に尋ねてくれました。もう冷や汗が出るような難しい質問で、「凄い聖書読んでいらっしゃますね、クリスチャンの方ですか」と聞くと、照れ臭そうに「違います。色々細かいところが気になってしまう性格でして。こういう疑い深い人間だから信仰を持てないのだと自分でも思うのですが」でも、キリスト教の信仰というのは、やみくもに信じるのではありません。ああ、これが真理だと私達が神様について分かるために、そもそも聖書は日本語に訳されているんですね。私は、高校仏教系の高校でした。般若心経を写経するという授業があったので、今でも言えます。でも、意味はまったく分かりません。分からなくても信心が成り立つ世界です。教会の信仰は違います。だから大いに、聖書に読んで、疑問質問を持っていただきたいのです。

トマスという人はもともと、分からない事は分からないと正直に言える人でした。ヨハネ14章5節には、彼のイエス様への発言が記録されています。場面は、十字架にかかる前夜の最後の晩餐、イエス様が弟子達に色んな事を話してくれていた。その時に、彼は言うんです。「主よ、どこへあなたが行こうとされているのか、私達には分かりません」。他の弟子達も、イエス様が言ってることが分からなかったけど、何も言わなかった。イエス様の話の腰を折ってでも、でもトマスは、分かった振りはできなかった。自分にとって大事な事だったからです。

この日もトマスは、自分でちゃんと納得して信じたかったのです。いくら信頼できる仲間や家族がそう言っているからといって、それだけでは信じられない。

教会の中でこそ見えてくるイエス様

 でも、大事なことがあります。その人は、引き続き教会の交わりの中でその疑問と向き合っていただきたいのです。

24節で「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」でも、26節「八日後に、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らといっしょにいた。」そしてこの日は、イエス様はトマスにも現れてくださるのです。イースターの日曜日に、イエス様がトマスにだけ現れなかったことについて、トマスが疑い深かったからとは書いていません。ただ、あの日、トマスは彼らと一緒にいなかった。けれど、次は彼は交わりの中にいた。イエス様は、教会の中でこそ、私達に見えてくる。分かる事ができる神様です。

生きた実例によって分かる神様

私が最後、イエス様を信じる決めてになったのは、初めて会ったクリスチャンの青年達が、私のために祈ってくれた事でした。私に伝道してくれたのは、当時お互い独身の妻ですので、妻としては男性のクリスチャンを私に紹介したいと思ってくれたそうです。巣鴨の駅で待ち合わせて、彼女の友人の男性2人が一緒に住んでるアパートに招かれました。どこにでもいそうな、気のいい兄ちゃんのような人達でしたが、最後、じゃあ祐希のために祈ろうと言ってくれたんです。初めて会った私のために、仕事が守られるように、支えられるようにと祈ってくれる。この人達が祈っている神様が存在しない理由がない。その帰り道に、私は妻に導かれイエス様を信じる告白をしたんです。

時に、そういう生きた信仰の姿が、はっきりイエス様の事を私達に分からせてくれるってあるんです。当時も、今もですが、聖書読んでて分からない所はあります。でも、クリスチャンと出会って、全部分かって信じてる人なんて誰もいないんだという事に気づけました。神様についても、神様がなぜこんな事をなさるんだろう、信仰を持ってもなお分からない事があるんだ。それでも、クリスチャン皆がそれぞれに納得している事は、この神様が私を愛し、私のために十字架で命を捨てて罪を赦し、よみがえって今私と共に生きてくれている事。それに私も納得できれば、信じられるんだ。そのために生きた信仰の実例を神様は私達の傍に置いてくれている。

強く信じられない自分

ですが、悲しい事に、色んな理由で、人は、教会を離れていってしまいます。一番悲しい事は、「自分ひとり信仰を持てないまま、教会に来るのがしんどくなった」という事です。教会の中でこそ信仰は持てるのに。

なぜ、トマスだけは、復活のあの日、弟子達と一緒にいなかったのでしょう。書いていないから、何とも言えないません。たまたま用事があっただけだったのかもしれない。ですが、トマスは、この時、自分が引き続きイエス様の弟子として加わる事にしんどさを覚えていたんじゃないかと、過去の発言から推測できるのです。

イエス様は、エルサレムで待ち受ける苦難を予想しておられました。それを口にした時、不安が広がる弟子達の中でトマスはこう言ったんです。「私達も、主ともに死のうではないか」。その時は、彼は本気で思っていたんです。イエス様の事を愛していたから。でも、彼は、できなかった。イエス様が捕まった時、他の弟子達とともに逃げ出してしまった。

そんな自分が、この先も、イエス様を強く信じることができるのか、自信がない。

だから、余計に、あの事もこの事も納得しないと自分は信じられない。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」

でも、理由をつけて、本当は、自分が信じ切れるかが怖いんです。

本当は平安がほしい

昔は、教会学校の頃は、神様がいると素直に思っていた。自分も洗礼を受けるんだと思っていた。でも、段々と信じるということが難しくなっていった。学校では進化論が教わる。教会に行かなくても幸せそうな人生があるように思う。違う価値観がある。色んな人生の経験をする中で、神様がいるのにどうしてというあの事も、心にいつまでもひっかかっている。

これが納得したなら信じられる。でも、本当は、そんな条件をつけずともきっとトマスだって信じたかったんです。自分以外の弟子達は、イエス様にもう会っている。そして、平安があなたにあるように、そうイエス様に言ってもらった。イエス様と会えた、イエス様をもう信じたんだ。そこから来る平安が私だってほしい、けれど、もう私は、イエス様のために死ねない自分だと気づいてしまった。周りに教会に行ってると言えない自分に気づいてしまった。過去の失敗で、傷ついているトマスがいたんです。

あなたをほうっておけない人

でも、そんな彼を放っておけない弟子達がいました。まだ私達の中でトマスひとりだけ、イエス様に会えていない。あんなにイエス様の事が好きだったトマスが。信じ切れないトマスの苦しさを、良く分かっていた仲間達でした。最初あのイースターの朝、女性の弟子達がまずイエス様に会ったと言った時、私達も同じ反応をした。イエス様が捕らえらえた時、逃げ出したという後ろめたさを抱えていたのは彼らも同じでした。弟子達は、その日鍵をかけた部屋に閉じこもっていたとあります。信じ切れない鍵をかけた心、恐れがいっぱいの心、でもそこにイエス様は現れてくれた。あなたもそれを体験してほしい。そして彼らは8日後、ユダヤの数え方で、1週間後、日曜日、トマスを誘いました。トマスにはおせっかいに感じたかもしれないけれど。彼らが今回も部屋に鍵をかけたのは、前と同じ出来事が起こることを期待したからかもしれません。神様、トマスを連れてきました。彼にもどうか現れてください!

そして、その時は来ます。26節「八日後に、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやってきて、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。」トマスの目の前にイエス様は立っていました。そしてトマスにイエス様は語りかけてくれました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」

信じられない者のためのキリスト

イエス様はトマスの疑い続けた時間を責める事もしない。信じ切れず逃げ出してしまった彼の弱さももう赦している。その上で、トマス良く今日ここに来た。あなたが私を信じる者になるために、あなたが本当にそれで信じるなら、遠慮なく指を私の傷跡に入れてくれ。

イエス様は、本当にトマスが手を入れようとしたら、入れさせてくださったと思います。十字架の数日後の、まだ傷も乾かないその傷跡に。指を入れたならイエス様に激痛が走ったとしても、それであなたが信じるなら構わない。この傷跡は、あなたのためにかかった十字架のしるしだから。

今日も神を信じられないあなたの前に、この十字架の穴の空いた手が差し出されています。神の前から随分と遠く遠ざかってしまったあなたの前に、復活のキリストは「平安をもたらしたい」と立っていてくださる。あなたの信仰が復活するまで、私はここにいる。あなたの心が平安で満ちるまで、私はここにいる。

トマスは今までクリスチャンになるとは、「神のために、死ねることだ」と思っていました。そして、信じ切れない自分は、弟子であり続けられない。教会から離れて行こうとしていたのかもしれない。しかしそれはとんでもない思い違いだった。私達は自分の力で神のために死ねる者ではありません。神が私達のために死んでくださる。こんな神は世界中のどこにもおられません。イエス様の手の空いた釘の穴をじっと見ながら、信じられない私のために、イエス様は十字架にかかってくださったことをトマスは知るのです。

そしてそれが私達に神が分かってほしいことなのです。

疑いを飛び越えていける愛

 それが分かった時、彼の口からこのような言葉が生まれました。「私の主、私の神よ」

「私の・・・」という言葉は、愛の言葉です。「こども」というのと、「私の子供」というのとは響きが違います。「妻」というのと「私の妻」というのは愛の響きが違います。キリスト教の神とは、人に、あなたの主、あなたの神として信じてほしい、個人的な愛の関係を結んでほしい神です。そんな神がまずトマス1人のために現れてくれた。この神は、まずトマスの神に、あなたの神になりたいと思ってくれる神なのです。

 その告白を生み出した、しかし、トマスは、実際に、指を入れて確かめたとは書いてないのです。確かめる必要がなくなってしまった。トマスのために、会いに来てくれたイエス様。その愛を確かめることができた。それで十分だった。

信仰とは、愛の関係です。全てを納得して信じるのではないのです。でも、この人は私のために本気でいてくれる。そこにある愛は確かめることができるものです。そして、愛は、疑いを覆います。愛は疑うことがあったとしても、信じることを止めないだけの根拠を与えてくれるのです。そんな愛とは、間違っても、私から神への愛ではありません。神から私への愛の確かさを、私達は確認していくことができる。だから、私達は、まだ神が完全に分からないけれど、自分が信じぬけるかも自信なんてなくても、あなたの神でいてくれる神に、出会ってくれる神に、今日、私の愛を伝えるのです。私の主、私の神と。

愛と出会うことができる

どうか、これからも教会にお越しください。イエス様の最後の言葉「あなたは、わたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」これは、イエス様を見ないでも信仰を持てる強い人は幸いですと言いたいのではありません。この後、イエス様は天に昇られて、トマスにしたように目に見える形で人に現れることはなくなったのです。でも、目で見れないけれど、今日の場面と同じ出来事が人の中に起こっていく。教会に来たら神が分かります。日曜日、この場所で、キリストは信じられない者達のために出会ってくださるからです。イエス様がよみがえってくださったからです。今も生きておられるからです。すでに出会った人たちがあなたの傍にいるからです。あなたの心にもイエス様が来ます。

しばらく祈りの時を、持って行きたいと思います。(終わり)