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ヨハネ7章1から9節

わたしの時はまだ(2026年10月11日)

半年が過ぎた

2節にこうあります。「時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。」ユダヤ人達は今もこの祭りを行っています。年によって日付が変わる祭日で、今年は、9月26日からの1週間でした。ちょうど今の季節なんですね。ヨハネ7章はずっと、この祭りの期間に起きた出来事を記します。ですので、この祭りがどんな祭りだったかは、来週以降も触れたいと思いますが、振り返ると、先週までの6章は、春の過ぎ越しの祭りの時の話でした。半年が過ぎていたのです。この間、1節でイエス様はガリラヤを巡り続けられたとあります。しかし、決して、エルサレムには近づこうとはしなかった。1節でユダヤ人達と言われるエルサレムの宗教指導者達が、イエス様を殺そうとしていたからでありました。

弟達の提案

しかし、そんなイエス様を歯がゆく思っていた人達がいました。3節「そこで、イエスの兄弟達がイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。」この兄弟達は、イエスが生まれた後に、マリアとヨセフの間に生まれた弟達、そして妹達でした。他の福音書では、彼らは最初、兄の働きを心配していました。身内と一緒になって、実家に連れ戻そうとしに来た事もありました。ですが、次第に、兄は特別な人だと思うようになった。だからこそ、兄のやっている事に身内として、口を挟まずにはいられなかった。ユダヤ地方、都に行きなさい。

4節「自分で公の場に出る事を願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」彼らからしたら、この半年間、ガリラヤでイエスがやってきた事など、人目に隠されていた。所詮はここは田舎だ。同じ話や癒しをどうせ行うなら、こんな効率の悪い場所ではなく、都で大勢の人の前ですればいいじゃないか。時間も労力もあなたはここで無駄にしている。3節後半「そうすれば、弟子達もあなたがしている働きを見る事ができます。」あなたの弟子達だって、そんな風に華々しくあなたが都で有名になることを見たいんですよ。兄弟達は、身内として、弟子達が言いだせない願いを代弁しているつもりだったかもしれません。ある人は言います。先週私達が見た多くの弟子達が離れ去ってから、弟子の数は回復していなかったかもしれない。焦りがイエス様の周りにはあったのかもしれない。

そんな中で、チャンスが巡って来たんです。仮庵の祭り。過ぎ越し、ペンテコステと並ぶユダヤ三大巡礼祭として、この時期、都の人口は膨れ上がっていました。そこで兄さんが、堂々と都に入って、神殿でガツンと説教して、奇跡起こしたら、大勢の弟子を獲得できるでしょう。

わたしの時はまだ来ていない

ですがその提案を記録した後、この福音書は5節「兄弟達もイエスを信じていなかったのである。」良い事だと思って、兄のために提案している。でも信じてはいない。イエス様の事が、分かっていない人の提案だった。

それが少し、彼らにも気付けたのではないか。イエス様が、彼らの勧めを断った時に。

6節「私の時はまだ来ていません。」8節「あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです」

イエス様は、自分には従うべき時があると仰いました。父が定めた、わたしの時がある。そしてそれはまだ満ちていない。

神の時を見誤る

一方で、6節後半「しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。」あなたは私と違って自由だ。従うべき、満ちるまで待つべき時なんてない。いつでも自分の思う時に、好きな事をすればいい。

しかし、そう言われたイエスの兄弟達だってユダヤ人です。全ての事には定まった時がある、伝道者の書からちゃんと学んでいました。自分達だって神の時を意識していると思っていたはずです。今回だって、兄が都に行くのは今が神の時だと、ユダヤ人としてそこに神を持ち込んでいたでしょう。でも実際の所あなた達は、父の時に従っている訳でもない。自分が今だと思う時を選んでいるだけだ。あなたが時の支配者になっている。なら、あなた達にとってあなた達の時はいつでも用意ができている。好きなようにできているじゃないか。

神も同じように思うはずだ

そもそも彼らがイエス様を分かっていなかったのは、この状況を、兄も自分達と同じように考えるだろうと思った事です。私達から見たら、こんな良いタイミングはない。こんなにも状況は整っている。半年前の弟子達が去って行ってから、皆がずっと祈ってきた、挽回のチャンスは今しかない。今動かないと絶対に後で後悔する。私がイエスだったら絶対に動く、そんな私の判断を、イエスだってそう思うに違いない。そして、神もまた、私と同じ判断をするはずだと思い込んでいる。

しかし、もしかしたら、神の見方は私と違うのかもしれない。ここで兄弟達は、イエスのためを思って、良かれと提案しているんだと思うのです。身内の距離感で、イエスをたしなめるように4節「自分で公の場に出る事を願いながら、隠れて事を行う人はいません」

イエス兄さん、公の場に出たいんでしょ。多くの人に弟子になってもらいたいんでしょ。だったら、今だよ。でもイエス様の願いは、単に人々に知られる事ではなかった。この時の兄弟達のような慕われ方ではなく、本当にイエスが自分の救い主だと人が信じるために、何を、そしていつすべきかをずっと父に聞いていたのです。

十字架の時が来たら

この福音書の中で、イエス様がわたしの時と言い続けている特別な時がありました。それは、十字架です。その時が来たら、イエス様は父に従って命を捨てる。それによってはじめて人々はイエスを信じることができる。その時は、半年後に迫った次の過ぎ越しの祭りでした。この仮庵の祭りではなかった。その時が来たら、イエス様は、兄弟達が期待するような堂々と、いわば公の形で、エルサレムに入城される。預言の成就として、ロバの子に乗って、大勢の人の歓声を受けながら。

イエスへの憎しみが見えていない

ですが、そのような人々の評判も、あっという間に、イエスを殺せという憎しみへと変わっていく。十字架の下で、私をあざける声に変わっていく。でもそれこそがイエスの臨んだ時でした。弟達よ、あなた達は、その未来をまだ分かっていない。

だからこの場面、イエス様を信じていない弟達は、人々のイエスへの評価を楽観視し過ぎているのです。祭りに行けば皆弟子になるだろうと。でもイエス様もる。7節途中「世はあなた方を憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪い事を証しているからです。」

イエスの事が分からない彼らは、世はイエスを憎むんだという事実が見えない。でも、イエスがどういう方か分かるほど、私の中にも憎んでいるとさえ言える思いがある事が見えてくる。

なぜ人はイエスを受け入れたくないのか

イエス様は、世が自分を憎むのは、わたしが世について、その行いが悪いこと証しているからだと仰る。イエス様の話すことが、いつも、私の罪を責めてくる言葉ばかりだという単純な話ではここはないと思うのです。私達への愛を語ってくださるその言葉に、心安らかな思いで包まれながら、いっぽうで私達どこかで、居心地の悪い思いにこの方といるとなるんです。この方は、自分の思い通りの時を選ばなかった。神の時を、自分が人から受け入れられる事を、基準にしなかった。私達が成功と思うような事ではなく、人から憎まれたとしても、それでも神の時を受け入れた。そして、時が満ちるまで、待つということができる方だった。

その存在そのものが、無言の証として、私を私自身に問いかけさせるのです。私はどう生きるのか。

世に憎まれない私達

ここでイエス様は兄弟達に対して、私と違って7節「世はあなたがたを憎むことができない」と仰るんです。私のようには憎まれはしないと言うのです。あなたの中に、私のような生き方を人は見つけられないから。世の中の人達と違いがないから。自分の判断で、自由に時を決めたいと思っているから。しかし、もし私と同じ生き方をするなら、あなたも人から受け入れてもらない経験をするだろう。

こんな話を聞いたことがあります。旦那がクリスチャンで、奥さんが未信者の家庭でした。旦那に転職の話が舞い込んできた。もとからやりたかった仕事で、今の給料よりもずいぶんと条件が良かった。しかも本社が、妻の実家に近く、年老いた妻の両親の将来も気になっていた2人からしたらありがたい話だった。しかも、子どもの学年的に、これ以上大きくなると転向先で苦労させてしまうだろうと思った。ベストタイミングだった。

でも、旦那が迷ったのは、日曜日休めなくなる可能性があるという事だったそうです。可能性があるだけだったから余計に迷った。今の教会の奉仕の事も、頭をよぎった。神様本当に、今でしょうか。進むべきでしょうか。妻に内緒で祈っていたけれど、ある時ぽろっと、ご飯中に、あの事は祈っている途中だと言ってしまい、猛烈に妻から言われたんだそうです。なぜ、そこで神様が出てくるのか。考えても、答えは1つじゃない。何なの、その神の時って。

神を憎む

私達、神の時なんて事本当に考えると、自分の人生の決断さえ簡単にはできなくなる。私達、そんな事を考えるから苦しいのじゃないか。自分が時の支配者で、生きちゃダメなのか。だって正直、神の時って、完全には祈ったところでいつも分かる訳ではない。今かなと、祈りながら進んで、開かれて始めてああ、時だったと分かる事ばかりでしょう。じゃあ、最初から、そんなの気にせず、自分の判断で決めてダメだったら自分の責任と割り切っちゃだめなのか。確かに、自分の基準で、自分にとって都合が良いからで選んじゃって失敗することもありますよ。でも、時にあなたはただただ私を、あてもなく待たせるだけじゃないですか。何なの、その神の時って。俺もわかんない。そんなもので私を縛る神が憎い。

イエスが待ってくれた

しかし、兄弟達の願いに動かずに、じっとイエス様が待っていた時とは、兄弟達にとってもどんな時だったのか。やがて、13章1節でイエス様はこう言うんです。「さて、過ぎ越しの祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者達を愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」この最後まで、極みまで愛されたという意味です。イエス様が待ち続けた十字架の時とは、イエスを憎む世を極みまで愛する時でした。そこにもちろん、イエスの兄弟も入っているのです。彼らを愛するための時でした。彼らを救うために命を捨てる、愛を示す時でした。そのことを、やがて弟達は知るんです。復活したイエス様は、少なくとも弟の中のヤコブという人に現れたと聖書は書いています。他の弟達にも会ったでしょう。そして、その時彼らはイエスを信じた。彼らはイエスが分かったんです。何のために、イエスはあの日動こうとしなかったのか。私達のために。私達が想像できなかったような愛のわざを私の人生に起こしてくださるために、神はあの日、時を待っておられた。

私達の人生もそうではないでしょうか。私達の人生で最も大事な時、イエス・キリストを信じた時がありました。イエス様は私達ひとりひとりのその時を待っていてくれたのです。人によってはとても長い間。

そして、イエス様が自分の人生にくださった色んな愛を、気づくことができる時もまた私達の人生には何度もありました。振り返って、私が願う以上の事をしてくれた神です。私の願うタイミングでも、願ったような形ではなかったけれど、神の時があって、神が私の人生を導いてくれた積み重ねの中に今がある。そう私達が再び思える時まで、神は待っていてくれる。

待てるようになった兄弟達

 なら、私達も、また、待てるのではないか。これから先の、私の人生に起こる神の時というものを。

私、好きだなあと思うのは、この弟達が、使徒の働き1章に出てくるんです。イエス様が天に上られた後、弟子たちがエルサレムに集まって祈っていた。その中に、「イエスの母マリアと、イエスの兄弟たち」もいました。主が天に上られた。けれども、まだ約束された聖霊は来ていない。何が起こるのか、彼らにはまだ分からない。それでも彼らは、そこにとどまって、祈っていました。

待てる人に、彼らはなったんです。今でしょって、神の時をむしろイエスに教えようとしていた彼らが、今度は、待っている。

時を待つ間も神は働いて

時を待つ彼らには喜びがありました。待つ時間は何も起こらない空虚な時間ではありませんでした。イエスが生きていたからです。見えないイエスに愛されている実感があったからです。

振り返れば、十字架の時が満ちるまで、イエス様は何もしなかった訳ではありません。ガリラヤを巡り、弟子達や兄弟と交わっていた時間は、弟達が思うような無駄な時間ではなかったのです。願いと違う動きをするイエスは、愛を届けておられました。

私達も、待てるのです。空しい思いではなく、愛されながら。主は今も、生きておられます。(終わり)