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黙示録22章1~7節

本来の姿

第二の訪れを待ち望む

どうして、黙示録をアドベントに読むのでしょう。アドベントという言葉は、待ち望むという意味の言葉です。教会は、クリスマスまでのこの期間、聖書の民が、約束された救い主の訪れを長い間待ち続けた時間を追体験します。同時に、アドベントに、第二の訪れ、再臨について思いを馳せるという習慣もキリスト教会の伝統には存在したそうなんです。

確かにそこにおいて、主を待ち望むという事は、私達にとってもリアリティを持っているんだと思うのです。主よ、主よ、御民を救わせたまえやと先ほど歌いました。ますます、世界は、混沌とした時代に向かっていっているように思えます。当たり前だった、価値基準や国際秩序が揺れ動き、自分達の知っている社会がどんどんと代わっている。これから私達の生活はどうなるのだろう、世界はどこへ向かうのだろう。そんな不安を漠然と感じながら社会の中で生きている私達に、今日の7節で「見よ、わたしはすぐに来る」とイエス様は言ってくださる。その時、どんなにか素晴らしい世界が現れるのか、それが語られているのが今日の22章です。

世界全体が都に

 そこには、2節で「都の大通り」とあるように、私達の住む都があります。この都は、21章で、花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から下ってくると表現されます。そして、数々の宝石で飾られたこの都に、復活した人々が開かれた門から入ってくる。

私達新しい世界では都会暮らしなんですね。千葉から蕨に越して来た方が、「蕨は人も建物もいっぱいだ」と仰っていましたが、この都、すべての時代のクリスチャンが住むとなると、人口密度は、蕨市より凄い事になりそうな気がします。でも、ご安心ください。21章でですね、この都の大きさが語られていますが、それは、当時の人々が知ってたローマ世界全部の面積と同じなんです。当時の人にはそれが世界の全てでありましたから、この幻は、新しい世界がまるごと都になっているというイメージなんですね。

全部が前に戻るのではない

都というのは、人間の文化的な生活を意味しています。これを、創世記の神様が最初に作った世界と比較したいんですね。あの時、人はエデンの園に住んでいました。文化活動という意味では、畑仕事しかありませんでした。楽器すらありません。あの最初の世界に、単に私達戻るという訳ではない。人が築いてきた文化が全部リセットされる訳ではない、そうこの幻は示しているのです。

確かに、創世記を見れば、堕落した後、様々な道具を作ることを始めた人はやがて、高い建造物を立てられるまでになり、神に逆らいバベルの塔を建てます。今でも、人は発明した技術で環境を汚染し、お互いを殺し合っている側面がある。私の父がドローン運転の資格を取って、操縦を自慢げに披露してくれました。そのドローンが、戦争で建物に自爆攻撃をしかけている映像を見ると、人間の行いに背筋が凍ります。でも、人の文化を生み出す力そのものは、神様が本来人間に与えた賜物の1つです。神のようには何もない所から生み出す事はできませんが、すでにある素材を使って新しいものを創造していく。すでに堕落前のアダムに与えられたガーデニングの仕事だって、日々色んな発見が彼にあったはずです。

ですから、神様は、今の私達の文明の進歩をことごとく否定なんてしていない。ただ、新しい世界では、その技術を扱う私達の心が変えられる。5節に「彼らは代々限りになく王として治める。」王として治めるとは、王である神様の心で生きて行くという事です。自然を慈しみながら、そして、互いを傷つけるのではなく喜びを生み出す、そんな文化を生み出していく社会が新しい世界では実現しているんですね。

預言の成就、いのちの水の川

 さて、この都には川が流れています。1節「御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、12の実をならせるいのちの木があって、毎月1つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した。」いのちの木というのは、エデンの園にあった木です。善悪の木の実を食べた人間は、それを食べて永遠に生きないようと追放されたのでした。その木が12本もある。新しい世界はエデンの園以上だという描かれ方をしています。

この新しい世界の都に、中心を流れる川があるというのは、旧約聖書でも語られていた幻でした。ただ、例えばエゼキエル書の幻では、神殿からその川が流れているとされているのに、黙示録の幻は違うんです。もはや神殿はこの都にない、代わりに、神と子羊の御座、そこからいのちが流れ出ている。

この都には神がおられるのです。だから3節「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え御顔を仰ぎ見る。」イエス様の姿を毎日見ながら、神にお仕えすることができる。そんな私達だから、私達は王としてのアイデンティティを持って日々を過ごせる。いつでもこの神様に相談し、この神様に教えてもらい、こんな良いものができましたと言ったら一緒に喜んでくれる神様がいる。

そんなやりがいが新しい世界では永遠に続きます。いつも、神様の愛の光で照らされて、新しい都に住む私達は幸せなのです。5節「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは代々限りになく王として治める。」

自分達の生きる現実

 使徒ヨハネに示された未来の幻はここで終わります。1世紀の自分の生きる現実に引き戻された彼の前には、まだ御使いが立っていました。6節“御使いは私に言った。「これらのことばは真実であり、信頼できます。」預言者たちに霊を授ける神である主は、御使いを遣わして、すぐに起こるべきことをしもべたちに示された。「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守るものは幸いである」”

この使徒ヨハネが、今礼拝で読み進めている福音書も書きました。彼が福音書を書いた時代は、迫害が教会を覆っていた闇の時代だと話しました。恐らく時間的には、黙示録を書いたのが先に思えるのですが、この幻を受けた時、彼はパトモス島に島流しにあっていました。

今見た未来の幻とは、あまりにも現実は落差がありました。彼ら信仰者の誰1人王ではありません。ヨハネのように鎖に繋がれている者もいましたし、そうでない人達も、彼らが生きる社会の中の歯車の一部でした。その社会は信仰と違う原理で動いていましたので、神を悲しませるような光景が至るところにありました。彼らが生きていたのは黙示録でも描かれる、人のいのちが物として消費されるような文明でした。技術を駆使して自分の利益を最大化する事だけに熱中する経済圏から、でも彼らは逃げられなかった。町で生きる限り、エデンの園のような自給自足に戻らない限り、異教の儀式には関わりを拒めても、社会の中で生きる以上。でも、私達の社会だって、そこから2000年経ったのに、同じじゃないでしょうか。

自分達が一体この社会でどのようなインパクトを与えることなどできるだろうかと思うのです。やっぱり、イエス様が来なければいけない思う。ああ、主よ、来てください。この暗闇の世界を変えてください。私達の待ち望みにはリアリティがあります。

王として生きる姿

 しかし、教会は暗闇の時代、ただ待っていただけではありませんでした。コロナ禍で、キリスト教会で再注目された、2世紀のローマ帝国内における教会の姿があります。まだ帝国から信仰を引き続き認められていない時代。アントニヌスの疫病というパンデミックがローマ中を襲いました。原因不明の病気で倒れていく患者を社会は恐れて放置する中、教会は毅然と看護に当たっていったのです。人々は、突如自分達が見下していたクリスチャンの中に、まるで王のように気品を携えて生きる姿を見たのだそうです。

クリスチャンは、今この地上の社会の中で、まるでやがてくる世界の中で王として生きている、そんな歩みをすることが出来る存在なのです。

いのちの水の川、キリスト

 なぜなら、今日見た黙示録の幻の世界と、今私達がキリストからいただいている物には通じるものがあるからです。この幻を受けた使徒ヨハネ、彼が書いた福音書のイエス様の言葉と今日の幻を比較するとそれが良く分かる。今見た幻では都を照らす光は主イエス様の輝きです。イエス様はかつて仰った「私は世の光ですと私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」。そして、子羊の御座から流られるいのち水の川。イエス様はこうも仰いました。「誰でも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れるようになる。」今日の4節で人々は「御顔を仰ぎ見る」。主は言った「私を見た者は父を見た」。また、同じく4節では「彼らの額には神の御名が記されている。」イエス様は仰った。「わたしはわたしの羊を知っている。わたしは私の羊のためにいのちを捨てます」

私達は、今、すでに、新しい世界の一部味わっているんだ。そのような私達だから、そこでの歩み方を、今すでに始めて行ける。

私達は今神の国を生きている 

 それが私達のイエス様についての待ち望み方なんです。待ち望む世界が、すでに来たかのように私達ここで歩んでいく。 

 それが私達にできるのは、やはり、もうすでに一度、クリスマス、イエス様が来てくださったからです。私の心に、イエス様が来てくれたからですよ。だから、イエス様がお生まれになった時から、世界は確かに変わり始めていったのです。西暦は、イエス様が来る前はBC、来た後でADと区別されます。今はまだ目に見えないけれど、インマヌエルと呼ばれるこの方が、私の傍にいるから、私達は日々を、王としての気品を持って歩むことができる。

それは別に大それた歩みではありません。17世紀にヨーロッパの修道院で生きたブラザー・ローレンスという人がいます。修道院には、礼拝や聖書に関する仕事もありましたが、彼が割り当てられたのは、掃除、皿洗い、オムレツづくりでした。しかし、彼の残した言葉は、多くの人に、仕事の尊さとは何かを教えたのです。「私は小さなオムレツをフライパンで返すときでさえ、神への愛をもって行います。そのオムレツが出来上がると、もし他にすることがなくても、私は地にひれ伏し、私にその恵みを与えてくださった神を礼拝します。そして、何も特別なことがなくても、王のように満ち足りた心で立ち上がるのです。神のために小さなわら一片を拾うことさえ、神への愛で十分なのです。」

ローレンスにとっては、神が日々、そよ風の吹くころ、仕事の終わりに、神が近づいてきて、豊かに神と恵みを語り合う日常があったのでしょう。私達も同じです。どんな営みも、神と親しく交わりながら行うならそれこそが素晴らしいのです。何もできなくなっても、神は共にいて、祈りという仕事を私に残してくれる。私達は今、人生に、王としての品格を持って生きていける。

今私達にできることがある

 その時、私達の周りに、神の国が広がっていきます。私達は、新しい世界をただ待ち望むのではない。汗を流しながら待つ。自分が生きる世界が少しでも、神の本来願う姿を反映するものになるようにと。

確かに、聖書はこの世界は私達の手ではどんどんと良くなって、最後新しい世界が来るというような輝かしく楽観的な未来を描いていません。むしろ、この世界はさらに厳しく悪がはびこり、多くの人の愛が冷めると言っている。だからこそ、キリストに来ていただかなければいけない。でも、ルターの言葉です。たとえ、明日世界が終わっても、今日、私はりんごの木を植える。今、主が私達に願っている日々の勤めがある。その勤めを果たしていく時私達はこの世界に示したいのです。私達は、この世界が目指すべき本来の姿を知っている。

そのために今、1人1人できる事があります。アブラハム会で今年一年、この世界で働くという事という本を学んできました。自分の携わるサービスを通して、より良い社会にしていく事。それと同時に、あなたのいる職場環境を、お互いの思い遣りに溢れたものにしていく。環境に配慮したものにしていくこと。競争相手に、リスペクトを持つこと。新しい世界の都の姿に、少しでも自分の周りを変えて行く事は私達できる。仕事だけじゃなく、

家庭や友人のランチや、デイサービスの人達との会話の中で、そこにあなたがいることで、その世界を変えて行ける。そして、どうしてそういう生き方ができるんですかと尋ねられた時に、イエス様と一緒に生きているからだよと言いたいと思う。

ニグルの木の葉

イエス様は、絶対に、私が来たらこの世界を完成させてあげると言ってくれるのです。あなたが願い続け、目指し続けた社会は必ず来る。だから、今の頑張りは無駄骨ではない。

今日の幻に、いのちの水の川の周りにあるいのちの木、その葉が人々を癒した木があります。おそらくこの木が念頭あったと言われていますが、クリスチャンだった小説家、指輪物語を書いたトールキンは、ニグルの木の葉という短編を書きました。ニグルは画家で、彼の心の中には、とても美しい一本の木のイメージがあった。彼は一生懸命その木を自分のキャンバスに表そうとするのですが、結局彼が死ぬまでに描けたのは1枚の葉っぱだけでした。でも、死後の世界についたニグルの目の前には、その木が青々と自分の頭上にあった。彼は大喜びで言うのです「贈り物だ!」。

私達が実現できるのは、ニグルのように、1枚の葉っぱかもしれない。でも、たった1枚の葉っぱでも、やる価値はあります。今日、神様は、私達に、新しい世界という、木全体のイメージを私達の心に与えてくれました。あなたにできることはなんでしょう。あなたがこの後戻っていく社会の中で、あなただから、できることがあるはずです。「見よ、私はすぐに来る。この書の預言のことばを守るものは幸いである」(終わり)