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ヨハネ7章25~36節
どこへ行くつもりなのか(2026年10月25日)
この方はキリストなのか
仮庵の祭りの最中、都に現れたイエス様は、人々の間で議論を巻き起こします。25節「さて、エルサレムのある人達は、こう言いはじめた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。」公然と、というギリシャ語は、自由にとも訳せます。この人は誰にもはばかることなく、実に自由に語っているのに、指導者達は何も咎めない。お偉いさんの出方を伺いつつ、群衆は、イエスはキリスト、救い主なのかという問いを自分たちの中で続けるんです。
どこから来たのか知っている
しかし、問題がありました。彼らが知っていた、キリストであることの条件に、明らかにイエスが合っていないものがあった。27節「しかし、私達はこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのか誰も知らないはずだ。」
この言葉が奇妙に思うのは、41節2節を見ると、彼らは、キリストがどこで生まれるかは知っていたんです。ユダヤのベツレヘムだって。どこから来るのか知らないというのは、ですので、生まれの問題ではない。当時、人々が持っている救い主の神秘的なイメージがありました。キリストは、働きを始める時、突如、人々の前に現れる。それまでどんな風に育ってきたのか、生きてきたのか知る者はいない。
それに対しイエスの素性は人々に割れていた。ガリラヤで、どんな風に育ったか、知っている人たちがイエスの故郷には大勢いた。その人達が、祭りの度に都に訪れた際にも、聞くことができたでしょう。どんな子どもだったのか、いつ大工の仕事を始めたのか、どんな交友関係だったのか。そこには、他の人と違う秘密なんて何もないように思えたのです。
父のもとから来た
群衆のそんな思いに気付いて、28節「イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたは私を知っており、わたしがどこから来たかも知っています。」一旦、彼らの主張をお認めになる。そうだ、あなた達が知っているとおり、私はガリラヤのナザレからやってきた。あそこで、ヨセフとマリアに育てられ、弟達と野原をかけまわり、様々な人と共に生きてきたあの村は、確かに、私がそこから出てきた場所だ。しかし、私という存在を語る上で、あなた達にはまだ隠されている次元がある。28節続き、「しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方が私を遣わされたからです。」私をこの世に遣わされた方がいる。どこから来たのか、私はその方の所から来た。
イエスについて真実の話
そして、その方をあなたがたは知らない。神を信じるユダヤ人達にイエス様はそう言ったのです。なぜなら、いまや神を信じるという事は、イエス様の生涯に働かれた父なる神を信じることだからです。
父なる神はその最初から、イエスが父から遣わされた者だと証言してこられました。この時エルサレムの人々は知らなかったようだけれど、イエス様はベツレヘム生まれで、天使が乙女や、羊飼い達に、この赤ん坊は神が遣わした救い主だと告げていたんです。
そして、彼らが秘密などないと思った、ナザレでのイエス様が育った日々も、彼らの知らない次元がありました。私達が知りうるこの期間の聖書の証言は、ルカの2章52節たったこの一言です。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背丈も伸びて行った」。彼らの知らない父なる神の愛の中を生きた、それがイエスがそこから来たナザレの日々についての聖書の証言です。神の証言です。そして、今日の箇所イエス様は仰る。28節で「わたしを遣わされた方は真実です。」この父の、私について言う事が真実だと。
あなたがどこから来たかも知らない
そして今日、神は、私達についても同じことを言う。神を知るという事は、私についての真実の話を知ることです。神を信じるということは、イエスの生涯に、私の生涯に働かれる神を信じることです。何の秘密もない私の、目に見える人生の向こう側に神の働きという次元があることを認めることです。
私達は、どこから来たのか、神を知らないでもわかっているつもりです。子どものころ、親から、あんたここで生まれたんやでと、病院の前を通り過ぎると教えられました。当時もすでにちょっと古い暗い感じの建物だったと記憶してて、どうせなら、もうちょっと明るい感じの場所で人生始めたかったなあとも思いますが。生まれた時、私の顔は、死んだ母方の私のひいおばあちゃんにそっくりだったそうで、大きくなると、お母さん似だねと言われるようになりました。
でも聖書は、あなたはどこから来たか、神が知っている事があると言うのです。「この両親から生まれた」というだけでは、私を説明できない。私たちは神によって命が与えられた。両親の願いよりも深く、私という存在を願う神によって、私の人生は始まったのです。
これまでの人生の異なる見方
そして、これまでの私も歩みも、違う見方を神は持っている。神学校の頃、神との関係を深めるという授業があり、そこで自分についての年表、自分史を書いたのです。それ以降も自分でも調べて色んなやり方があることが分かりましたし、クリスチャンじゃなくても、自分史を書くというのは、自分の心を見つめるうえで有益な事とされているんだそうです。1つのやり方は、A4の紙を横にして、誕生から自分の人生で起きたことを年表にして書いて行くんです。全部書くと、何枚あっても足りないから、自分にとって大きな意味をもった出来事を書いて行くんです。
そうやって作業していくと、一般的に、今の自分に、過去の何が、影響を及ぼしているのか、確認できると言われます。あの出会いがあったから今の自分があるという宝物の記憶もあれば、自分にとってまだ癒されない傷として残っているものもその年表にはある。でもそうやって書けるという以上、自分自分にとって知らない秘密ではもちろんないわけです。そして、他の人も、あのことがあったねと証言できる出来事でしょう。でも、クリスチャンの自分史は、良い事も悪い事もあったそんな年表、その下に一本幅の太い横線でビーっと最初の誕生から引いて、神が私を愛し続けたと、書けるんです。イエス様のナザレでの日々にように。人が知らない、あなた自身も気づかなかった、そんな神の次元があるんです。
私を自由にしてくれる見方
そして、それが私達を自由にしてくれるのではないでしょうか。神から始まり、神の愛が共にいるという私の人生についての神の私についての証言がです。
この場面、群衆は、議員たちも、イエスをキリストと認めたのだろうかと、顔色を伺っています。30節で、イエス様を捕まえるt企てが失敗した後で、イエスを信じる人が多く出た時も、彼らは31節で小声でそれを話しているんです。イエス様についての見方が、他の人がどう思うかの影響を受けてしまう。そんな私たちだから、自分自身を見る見方も他の人に影響される。
しかし、イエス様が、群衆が驚くほどに自由に、敵意を持つ人々の間でも語ることができたのは、他の人が知らない自分についての父の証言があったからです。どんなに人が、目に見える情報だけで、イエスを判断し評価しても、そこからイエス様は自由でいられた。
人は言うかもしれません、あなたには価値がないと。自分で自分に言うかもしれない。仕事がうまく行かなかった時、何も自分はできないと思う。誰かからの愛に選ばれなかった時。時に私達はなぜこうなってしまったのかと、過去を振り返って、あの時の出来事に原因を探したとしても、過去は変えられない。でも、それでも私の人生は、神に愛された人生なのだと言う父の証言に耳を傾けたら私たちは自由になれる。
どこへ行くのか
そして、イエス様は、どこからだけでなく、どこへ行くかもわかっていました。33節「そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方の元に行きます。」「あなたがたはわたしを探しますが、見つける事はありません。わたしがいるところに来ることはできません。」しかし35節「すると、ユダヤ人たちは、互いに言った。「私達には見つからないとは、あの人はどこへいくつもりなのか。」イエスがどこから来たか知っていると思っている彼らも、イエスが行く場所が検討がつきません。私達が見つけられず、行く事もできない場所など、このイスラエル中にはないはずだ。外国に行くつもりなのか。
しかし、外国よりももっとずっと遠い所に、イエス様は行くつもりなのです。わたしを遣わされた方の元へ、天国へ、元いた場所に帰る。「その時、あなたがたはわたしを探しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」
自分史を、自分の物語を、自分で振り返り書いて行く時、確かに、その始まりは、神を信じないままでも書ける。しかし、どこから私が始まったか分かるという人も、どこへ私が行くかは分からない。その事を考えると、途方に暮れ立ち尽くしたままなのです。
父へと続く道を知っている
しかし、イエス様は、今日の言葉と全く反対のところに置かれているかのような言葉を後にお語りになります。最後の晩餐の席においてです。14章1節です。これは、開きましょうか。「あなたがたは、心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行くと、言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
この言葉を聞いた12弟子のトマスが尋ねます。5節「主よ、どこへ行かれるのか、私達には分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」イエスは彼に言われた「わたしは道であり、真理であり、命なのです。わたしを通してでなければ、誰も父のみもとに行くことはできません。」
イエス様は自分こそが、父のもとに続く道だと仰いました。イエス様という道が死の先もあなたには続いているから、そこでもあなたは私と一緒なんだ。だから、あなたは、どこへ行くか分かっている。本来人には知りえない、どこへの次元をあなたは知っている。
死を間近にされる方を牧師は見ます。済生会病院で、病室に寝かされた藤原さんを訪ねたんです。目を開いて、浅い息をして、苦しそうにされていました。私が尋ねました。「藤原さん、イエス様を信じていますね。」「はい」「じゃあ、天国に行けますね」「はい」「じゃあ、安心ですね」「はい」そう言うと藤原さんは、目を閉じ、穏やかに呼吸を始めました。私は今2人で確認したことが、こんなにも変化をもたらすことに、確認しておいて、驚いたのです。
絶望を打ち破って続く道
私達は、自分の人生の道が、最後どこまで続いているかこうして分かる。振り返ればこの道は、神の愛がずっと続いてきた道。A4の紙に、書いた自分の歩みの年表、その下に最初から太く引かれている神の愛、その線は、まだ空白の、これから起こる私の未来にも途切れることなく死を超えて、永遠に続いていくんです。途切れることはない。何がこの先に例えあったとしても。人生の谷底のような出来事があっても、その下にイエスという太い愛の道がある。
皆さんも、気持ちがぺしゃんこになってしまう事があるでしょう。もう立ち上がれない、自分の知っている限りでは、過去にも未来にも希望なんてない。人の声も自分の声ももうだめだと思う時、でも自分が倒れこんだ、地面には、まだ道がある。
イエス様は、死という絶望さえも打ち破ってくださいました。全てが終わった、と思った、イエスの遺体が墓に葬られた時間。しかし、3日目によみがえって道を、神があなたと共に生きているという現実を死さえも超えてつなげてくださった。
だから、この道を、私の愛の道を歩んであなたは行けばいい。イエス様は、よみがえった後、何度も弟子達に現れてくださいました。一度、エルサレムの閉ざされた部屋にいる弟子達の所に。弟子達が内側から鍵をかけていたのです。不安に脅えて戸を閉ざして部屋の中にうずくまるようにしていた。すでに、イエスの墓が空になっている事をペテロ達自身目撃したし、マリアが復活した主に会っていた。しかし、彼らの心は、イエスに働く神の働きが閉ざされていました。他の人達が、イエス様は死んだと、彼らの見方で語る事に心がつぶされていた。しかしイエス様は、心を閉ざしているその壁を突き抜けるようにして弟子たちに近づいて来て、「平安があなたがたに平和があるように」、と言われました。他の人の声から自由になって、神があなたに語る証言を真実とみとめなさい。私イエスの生涯に働く神を信じなさい、あなたの生涯に働く神を信じなさい。父は私を死からよみがえらせた。あなたにも、神は同じことをする。死さえも打ち破る神の愛が注がれ続ける生涯をあなたは生きていく。私を遣わされた方は真実です。この方は真理です。この方が仰る事が真理なのです。そこに、あなたを自由にする、あなたのための、道があります。(終わり)




