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ルツ記1章19~22節
ある女性の回復(2026年9月20日敬老礼拝)
真剣と深刻
若い頃は、今よりももっと簡単に絶望していました。失恋したら、この世の終わりみたいな顔をして教会に行っていました。すると、私がとても仲良かった年配の婦人から「なんなのもう、情けない。人生そんなこといっくらでもあるわよ」とハッパをかけられたものです。人生の先輩からの、経験に基づいた言葉には重みがあります。
私の好きなアメリカの作家の言葉に、「人生をそんなに深刻なものにしないことは、大変な仕事であり、大きな芸術だ」というのがあるんです。日本でも、真剣に生きる事と、深刻に生きる事は違うという格言を聞いたことがあります。どこで聞いたかなと思ってネットで調べてみたら、結構同じような事を、古くは一休和尚から、最近はテニスの松岡修造まで言っているんだなという事がわかりました。真剣と、深刻の違いについて、こんな文章も見つけました。真剣な人は、目の前のことに心を込める。深刻な人は、まだ起きていないことまで背負ってしまう。真剣さには、集中がある。深刻さには、不安がある。真剣さには、前へ進む力がある。深刻さには、自分を縛る重さがある。
深刻さに陥った時どうやったら抜け出せるでしょう。同じような経験をした人生の先輩に励ましてもらう。ふっと心が軽くなるような場所に出かける。家にいると沈んじゃいますから。落語を聞いて笑ってというのもいいですね。私説教でも笑いって大事だなと思っているんです。笑いって不真面目なことじゃない。固くなっている心に、神様の事を考える余裕を作りたい。まあ、問題は、私の冗談がちっとも面白くないという事なのですが。
田舎に帰ってきた女性
でも、どうやっても心が浮かび上がってこない。そんな時期ってありますよ。きっと高齢になってもあると思う。老人性ウツという病気もある。ずっと表情が暗い。今日出てくるのは、それで言うと間違いなく深刻な女性です。
19節「2人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が2人のことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ、ナオミではありませんか」と言った。」旧約聖書っていうのは、今でいう中東のイスラエルという地域が主な舞台でありまして、そこにベツレヘムという町というか村がありました。人口はおよそ数百人だったと言われます。ベツレヘム、パンの家という意味でありまして、麦畑が並ぶのどかな田舎の風景が広がっていたんですね。
田舎の場合、ほとんど人の出入りはありません。だから、10年ぶりにナオミが帰ってきた事はあっという間に広まり、大騒ぎになりました。しかも様子が変なのです。会う人合う人にこんな事を言っているのです。20節「ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみに会わせたのですから。私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」
10年前に、彼女は、旦那と2人の息子を連れて、モアブの草原へと移住しました。そこには食べ物があったからです。当時、彼女たちの村は飢饉で苦しんでいましたが、他の人達が助け合って乗り切ろうとしていたのだと思うのです。イスラエル人にとって、自分達の住む土地は神様から与えられた場所でしたから、神様が何とかしてくれると信じようとした。でも、そんな村人を尻目に、ナオミの家族は、この村に見切りをつけてぴゅーっとモアブの地へ行ってしまった。村人達から良い思いは抱かれなかったはずです。でも、彼女は、今でも、出て行く時自分は満ち足りていたと思っています。家族が一緒だったから。
彼女にとっては、夫と2人の息子がすべてでした。
でも、この10年で、旦那も、2人の息子も立て続けに失い、彼女は帰ってきました。イスラエル人の女性である自分がモアブで暮らすよりは、故郷の村に帰ろうと思った。でも、自分の夫の持っていた土地は、この10年の間に色々あって、もはや彼女がそこから収入を得ることができなくなっていた。彼女に残された道は、貧乏人の救済制度である落ち穂拾い。人の畑の収穫の時に、道端に落ちた穂は、貧乏人がひろうために残すようにと決められていた。
ああ、これは神様からの自分への罰だと彼女は決めつけます。主は私を素手で帰されました。だから、彼女は、私をナオミと呼ばないでと人に言いました。ナオミとは、心地よいという意味だからです。そうじゃなくてマラと呼んでください。苦いっていう意味です。
そっちの方が私にはふさわしいからと。
そんな変な名前なんてないわけです。日本語的に言うと、私は幸子だけど全然幸せじゃないから、不幸子って私の事を呼んでって言ってる。ちょっと自虐的なユーモアがあるんです。ちょっと自分でも自分の深刻さを楽にしたい思いもある。でも、周りはなんとリアクションしたらいいか、迷う種類の笑いです。実際に、ルツ記で村の人はこのあと、誰も彼女をマラとは呼ばないんです。
希望を見出すことができない
いつまでもナオミが鬱々としているもんだから、絶対に周りの人は言ったと思うんです。「お前さんさ、今は苦いかもしれんけど、また心地良いと思える日が来るかもしれないじゃないの。名前まで変えるこたあない。」でもそうやって気休めを言うとナオミは喰いついたかもしれない。「本気でそう思ってる?私の人生これからいい事あるって。」彼女にとって、絶望は、彼女がもはや再婚できる年齢ではないという事でした。帰る実家ももはやなかったのです。そして、未亡人が、手に職をつけて活躍できるような時代でもなかった。本当に、人んちの畑で落ちてるもので食いつないで、ヘコヘコ頭下げて生きてくしか見えなかった。
彼女の喜びは、全部、消え去った過去に中にしかなかったのです。何度も夢に出たでしょう。昔住んでいた家で、彼女は朝ごはんを作っている。寝室で、幼い息子達は、起きてそうそうに喧嘩している声が聞こえる。急いで学校に送り出す、慌ただしくも幸せな日々。無口でつまらないと思う事もあったけど、優しかった夫。息子達が大きくなり結婚して、孫を腕に抱ける日が楽しみだねと、夫と2人で話していた。目が覚める。全部夢。何もない、素っ気ない、部屋で、始まっていく一日に希望なんて持てない。
回復された人生
主は私を素手で帰されました。私にはもう何もない。彼女はそう、言いました。しかし、今日、皆さんに知ってほしいのは、このナオミが最後どうなるかです。私達の人生と違って、読者である私達は先を見ることができる。4章16節は、「ナオミはその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。
主は私を素手で帰されましたと言った女性が、その手に自分の将来の希望である赤ん坊を抱いている姿でルツ記は終わるのです。そう思うと、このルツ記ってのは、実はナオミで始まってナオミで終わる。ナオミの回復の物語なのです。
ナオミに起きた出来事
今日の場面の後、どんな風に進んで行くか。ナオミと一緒に、ベツレヘムについてきた息子の嫁のルツが、お母さん、私、落ち穂拾いしてくると率先して行ってくれる。貧乏人のすることだし、彼女はモアブ人、外国人だから、周りにからかわれるかもしれなかったけど、ルツはナオミのためにその役を買って出たんです。すると、ルツが向かった畑がボアズという男の人の畑で、彼は彼女が外国人なのに、神様を信じ、ナオミを支えるために、この村にやってきた事を知っていて、ルツに好意をもってくれます。そして、そのボアズがなんと、ナオミの夫の親戚で、詳しくは端折りますが、ルツと結婚し、さらには、ナオミの土地を買い戻す権利を持っていた人だったのです。全部神様が導いてくれたのです。
ナオミが気づけなかったもの
皆さん、それなのに、そんなルツが一緒に来てくれたのに、私をマラと呼んでと言ってナオミは、何と言っていたでしょう。「主は私を素手で帰しました」私はもう何もありません。そう確かに言ったんです。ナオミに、幸いをもたらしてくれる事になるルツを、いや、その時すでに、ナオミの苦しみを一緒に負いたいと思ってくれたルツという存在に、ナオミは気付けなかった。
深刻になることはだから怖いのです。自分の人生を決めつけて、そこにある幸いが見えなくなっちゃう。本当に自分にはもう何もないのか。
昔、ホームレス伝道をしていて、男性のホームレスに混じって、おばあちゃんがいました。女性が野宿するのは過酷な環境だから、圧倒的に男性が多い。でも、彼女は、市役所の対応に傷付いて、支援を受けず公園で暮らしていました。謎に教養が深くて、フランスのシャンソンが好きという方で、そのチームのヒロインみたいな人でした。でも、時々、
別人のように暗い顔になり、失踪する事がありました。他の集会では、違う名前を名乗っていることも知っていました。「消えてなくなりたい。誰も、私がいなくなって悲しまないから」一度その人が言うと、彼女の娘のような年齢の女性スタッフ達が、結構キツイ言い方で、「そんな事言わないの、私達が悲しいから」と言っていました。まるで実の母に言うような言い方で。
神にはあなたに見えていないものが見えている
今日の箇所に戻ると、ナオミが主は私を素手で帰したと言った直後に、聖書はこう言うんです。22節「こうして、ナオミは帰ってきた。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。」
神には、ナオミに見えていないものが見えている。ルツがあなたにはまだいるよね。そして、この時期は大麦の刈り入れが始まったころであったと、わざわざ書く。ナオミの目にも、映っていたのどかな村の景色、収穫の時期が来て色づいた麦の穂。しかし、神はそこに違うものを見ている。ここから始まっていくナオミの回復の物語をです。この畑に、ルツが落ち穂拾いに出かけ、そこでボアズと出会い、やがて結婚し、ナオミの手に赤ん坊が抱かれる。その未来のきっかけである収穫を迎えた畑が、ナオミの目にも映っていた。
まだ、ナオミにはわからない、私達にも分からない。でも、神様は、私達の今見ている現実の中に、あなたを回復する物語のきっかけをもう用意しておられる。
教会に来てほっとしてほしい
今日、聖書はそう私達に言ってくれるんです。
私、教会に来て、ほっと帰ってほしいんです。安心して帰っていってほしいんです。私の人生はマラだ、苦いなんて、決めつけられないよな、またちょっと深刻になり過ぎちゃったなって、自分を笑って、神様という存在に安心して帰っていってほしいんです。
「人生をそんなに深刻なものにしないことは、大変な仕事であり、大きな芸術だ」神が私の人生にいることがわかれば、私達にはそれができるのではないでしょうか。
そして、今日皆さんは、神様の事を聞きました。人によっては、一緒に連れてきてくれたクリスチャンの方がいますね。もしかしたら、今日、皆さんが、気づいていなかったものを、神様は気づかせたいのかもしれない。あなたの人生にも、ずっとキリストがいるよ。
道ありき
ここで、一人のクリスチャンの人生を思い出します。『氷点』や『塩狩峠』を書いた三浦綾子さんです。三浦綾子さんは、戦争が終わった時、自分がそれまで教えてきたことが一体何だったのか分からなくなりました。教師を辞め、その後、肺結核と脊椎カリエスを患い、長い闘病生活に入ります。婚約も解消し、生きる意味を失って、自殺を考えるほどでした。
でも、その、人生が終わったと思っていた、その療養所に、神様は彼女の人生のきっかけを置いておられたのです。幼なじみの前川正という青年が、彼女を訪ねてきました。彼自身も結核を患っていました。そして、この人がクリスチャンだったのです。三浦さんは最初、彼を拒絶しましたが。でも、やがて前川さんから一冊の新約聖書を受け取り、「一緒に聖書を読んでみませんか」と誘われます。そして、彼女は、病床で、洗礼を受けることになるのです。
しかし、試練は続きます。心の支えになってくれた前川正が35歳という若さで病気で亡くなるのです。その死に大きな悲しみを受け、しばらくほとんど人に会わないほどでした。
しかし、翌年、彼女は、三浦光世という男性と出会います。この男性は、亡くなっていた前川に良く似ていると彼女は思い、しかし、それゆえに彼女は、三浦に対して気持ちを通わせることに慎重になったそうです。けれど三浦は、あなたが正さんの事を忘れないことが大事なのです。あの人があなたをクリスチャンに導いたのですから、私達は前川さんによって結ばれたのです。そう言ってくれたのだそうです。
その歩みを、道ありきという題で彼女は小説にしました。道があった。敗戦から、病気になり、前川と出会い、キリストを信じ、三浦と出会った、すべて道があった。その時には道とは思えなかったものが、振り返ると神に導かれた道だった。
キリストがいた道だった。そして、その道はこれからもずっと、天国まで続いている。
皆さんの目には、今、日々がどんな風に見えているでしょうか。神は、私達に気づいていないものをそこに見ておられます。もう神は、はじめておられるのです。この神と、これからの人生を、歩んで行こうではありませんか。(終わり)




