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ヨハネ6章60~71節

離れて行きたいのですか(2026年10月4日)

追いかけてくれないイエス様

60節“これを聞いて、弟子達のうちの多くの者が言った。「これはひどい言葉だ。誰が聞いていられるだろうか。」”イエス様は、段々と、十字架の話をし始めていきました。私の肉を食べ、私の血を飲まなければあなたがたのうちにいのちはない。その表現が、動物の血を飲むことを聖書で禁じられているユダヤ人からしたらおぞましい言葉に聞こえたのです。ついにはイエス様の弟子達でさえ、そんな反応を示しはじめます。

でも、イエス様は何も手を打たない。61節で「私の話があなたがたをつまずかせるのか。」

それが原因だと分かっているなら、ならもっと、分かりやすく、丁寧に、誤解を解くように違う言い方をするねと、すればいいのに。66節で「こういうわけで、弟子達のうちの多くの者が離れさり、もはやイエスと共に歩もうとはしなくなった。」でも、その直前にイエス様がかけた言葉は、64節で「あなたがたの中に信じない者がいます。」65節「ですから、わたしはあなたがたに「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言ったのです。」

イエス様、去っていく彼らの事を、追いかけてくれないんです。引き留めるような言葉もかけない。誰が信じないかそもそも知ってたって言うだけです。そんなイエス様を私達、見せられた後で、67節には、「あなた方も離れて行きたいのですか」という言葉がある。もし、私は離れませんと言えなくなってしまったら、イエス様は私の事も追いかけてくれないのか。ここを読むと不安に感じてくる。

離れて行く人を見る痛み

 しかし、去っていく弟子達の後ろ姿を見る、イエス様の心に悲しみは間違いなくあった。

最初から結末がイエス様には見えていたとしても。なぜなら、信じられなかった弟子達が、

イエス様と一緒に過ごした日々に、受け取っていたのは、間違いなくイエス様からの愛だったからです。彼らは間違いなく愛された。愛にみせかけた何かではなかった。愛した以上、その愛が壊れる時、人も神も傷付くんです。

ルカの福音書では、自分を受け入れず滅びに向かうエルサレムの都、そこに住む人達のために、涙を流したとあります。あの人達はどうせ信じない、父が私に与えた人達じゃなかったからと割り切ることなどできなかった。そして、父なる神も、旧約で、私は誰が死ぬのも喜ばないと、離れて行く人のために痛みを抱え続けることを背負ってくださる神でした。

今はまだ私の言葉を受け取れない

だから、今日の場面、イエス様が追いかけない事も、引き留める言葉をかけない事も、神の冷たさととらえない事はできないのです。

そして私達だって、人に対して、これ以上、追いかけられない、かける言葉がない、そういうことってあると思うんです。今はただ祈るしかない。イエス様は、あなたがたの中に信じない者がいます、いずれ信じる事になる人達も、離れて行く人達の中にいることも見えていた。でも、今はこれ以上、話しても、彼らが受け取ることができない事も分かっていたのです。

確かにイエス様の言葉は特別です。ご自分で63節で仰っているように、「わたしがあなた方に話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」人間の言葉ではない、霊のことば、いのちを持った言葉です。

しかし、だとしても、それが相手に届くためには、63節冒頭「いのちを与えるのは御霊です。」御霊が、聞く人の心に働かないといけないんです。続き、「肉は何の益ももたらしません」とあります。肉、人間は自分だけではイエスの言葉を受け取れない。

何より十字架の事は絶対に分からない。弟子達は、十字架をほのめかす、血を飲むという言葉につまずきました。62節で主は「私の話があなたがたをつまずかせるのか。それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。」この福音書は、イエス様が十字架にあげられる瞬間こそ、神の栄光の場所に帰られる時だと言い続けます。そんな風に私の十字架を思うことなど絶対にできない、御霊が働かない限りは。

神の言葉に信頼して待つ

だから、これ以上は、この時、彼らに対して、追いかけることも、言葉をかける事もなかった。それはむしろ彼らの事を待ってあげる優しさだったのです。離れていかなかった残りの人達や、後の読者の私達が、イエス様冷たいんじゃないかと思おうがどうだってよかった。自分はちゃんとあの人に対して、やる事はやったという自分の納得のために、追いかけるという事もしなかった。祈って待ってあげる。

そして、それでも、この6章だけでもかなりの時間を割いて彼らに言葉を伝え続けたのは、今は受け取れなくても、後で御霊が、その言葉を通して彼らに働いてくれるためです。ここで私からみ言葉を聞いた、その御言葉と聖霊の力を、イエス様は信じていたんです。

いのちの言葉を受け取れる人がいる喜び

そして、この場面でも、すでに、神がその心に働き始めてくれていた人がいました。67節「それで、イエスは12人に、「あなた方も離れて行きたいのですか」と言われた。すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私達は誰のところに行けるのでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」大勢の離れて行く人達の中で、自分の傍に留まってくれたペテロ達12人がいました。代表してペテロが言うのです。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたからでしか聞けない言葉です。主よ、私達は誰のところに行けるのでしょうか。ペテロにも、まだ十字架の事は全然わからない。主の仰ることが全てわからなくても、この言葉で私は生かされてきたし、これからも生かされていきたいと思えた。そんな風に、イエス様の事を信じてくれるまっすぐなまなざしがあった。愛である神にとって、愛し返される経験は、純粋に嬉しかったでしょう。慰められたでしょう。

私が選んだことを覚えておいてほしい

イエス様、素直に、ありがとうでも良かったのかもしれませんが、代わりに、70節の言葉を語ったのです。「イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた12人を選んだのではありませんか。」何でイエス様これをペテロ達に言ったんでしょう。面白いのは、ある人がこれイエス様ツンデレなんじゃないかって。自分を選んでくれた相手に、そもそも私の方が先にあなたを選んだんだからねって。勘違いしないでよねって。あるいは、イエス様、ペテロの発言の中に、私はイエス様の事を選びました、他の人は離れて行ったけど私は違いますという誇りや自負みたいなものを感じ取ったからじゃないかとも言われます。

とにかく、でも、イエス様、この事をとても大事なこととして彼らにおぼえておいてほしいと常々考えておられたようなのです。それが良く分かるのは、十字架にかかる前夜の最後の晩餐でも、15章16節で同じことを繰り返しているからです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」そしてそれをその夜もう一度彼らに伝えた理由は、その直後に弟子達がイエス様を選べなくなってしまうからです。

選び続けられない私達

今日の箇所の最後で、イエス様は、「しかし、あなたがたのうちの1人は悪魔です」と仰いました。これは、イスカリオテのシモンの子ユダの事を言われたことであり、このユダはすでにイエスを裏切ろうとしていたとヨハネは書きます。ユダの事を悪魔って言うなんてあんまりだと、私達は読んでて思うかもしれない。でも、このイエス様の言葉を聞いた弟子達は、誰の事を言っているのか、分からなかったから、全然違う受け取り方をしたはずなんです。

私は、イエス様を選んだ。これからも選んでいける。皆が一応にそうだそうだと言うとき、あなたたちのうちに悪魔がいる。イエス様は彼らの確信に水を差したのです。揺さぶった。まさか、私の事じゃないだろうか。

そしてある意味では、私の事だったのです。ユダを指していたけれど、実際にゲツセマネの夜、裏切ったのは、ユダだけだったでしょうか。皆、兵隊たちに、捕まるのが怖くて、ネズミが散らされるように、逃げて行ったじゃないでしょうか。誰一人イエス様の傍にとどまらず、みんな離れて行ったのです。

主よ、私達は誰のところに行けるのでしょうか。ペテロはそう言いました。あなたから離れることなどもうできません。でも、自分が思うよりずっと簡単に離れる事ができてしまいました。イエスから離れても、いくらでも生きていける場所はあったのです。かつての自分の生活に戻るだけの話です。そこではイエス様を知らない人達の方が普通なのです。

今でも、その生活は、私達のすぐ近くにあって、簡単に行こうと思えばそっち側に行ける。

かつてペテロは、あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられますと言いました。イエスの言葉に魅了されていたのです。でも私達の中で、簡単にその思いって揺らぎますよ。

もっと違う場所で、違う言葉を聞きたくなる。人から言ってもらいたい言葉、自分にとって有益な言葉、そっちの方が私を生かす言葉な気がする。教会に来るということは選んでいるけれど、気持ちが神から離れ始めていく自分がいる。なら、あの夜のペテロ達のように、迫害の、身の危険が迫った時に、私はイエスから離れないと言える人などいるのでしょうか。

私達を追いかけてくる言葉

だからこそ、私があなたがたを選んだのではないか、そのイエス様の言葉が私達には必要なんです。「ですから、わたしはあなたがたに「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言ったのです。」父が私に与えてくれたあなただから、私はあなたを捨てず、あなたを守ると言ってくださったイエス様の言葉が必要なんです。私が選んだんじゃない、私が離れないんじゃない、イエス様が、私から離れないから、私達は、イエス様の傍にいられるのです。

ペテロは離れて行こうとしました。イエス様が捕らえられた後、大祭司の中庭で、イエスを三度知らないと言いまいた。でも、彼の心の一番危険な瞬間に、彼が裏切った瞬間、ルカの福音書では、振り向いたイエス様の目とペテロの目が合う。その時、聖霊が働いてくれたから、ペテロは、完全に絶望せずにすんだのでしょう。彼の心に、再び、イエス様の言葉が響いたのです。最後の晩餐で、鶏が泣く前に、あなたは三度、私を知らないと言うと言ったイエス様の言葉がよみがえってきて、彼は泣きます。イエス様は全部ご存じだったんだ。主の言葉が、再び彼にとって力を持ったものになる。その時、きっと、彼は思い出したと思うんです。わたしがあなたがたを選んだのではないか。こんな裏切りをした私を、イエス様はまだ、離さないでいてくださるのではないか。その励ましがずっと彼の心の中にあったから、イースターの朝、イエス様の墓が空になっていると聞いて、ペテロは走って行けたのです。まだ、彼は弟子でいられたのです。

いつか、彼を支えるために、イエス様は、今日、私が選んだと先に言ってくれました。イエス様には、その言葉が、彼に追いかけてきてくれる未来を知っていたんです。

みことばには足がある

あるキリスト教の講演で、講演者が、みことばには足がある、という言葉を話したんだそうです。講演ではある1人の女の子についての話から始まりました。その子の父親は牧師で幼い時から教会学校に通い、毎夏バイブルキャンプに参加し、やがてキャンプで教えるようになり、15歳になると仲間と教会を回って賛美をしていました。その子が10代後半になると牧師と親に「私はあなたの神を信じていません」と言って無神論者になったのです。大学ではクリスチャンに信仰から離れさせようと疑問を投げかけ、無神論の宣教師のようになりました。講師は言いました。「これは私のことです」。でも、彼女は教会を離れる前にみことばと聖書の価値観を植えつけられていたことによって、戻って来られたということでした。その経験をもとに彼女は、みことばには足があります。そして、全ての放蕩息子には希望がありますと言ったんだそうです。

私、その話聞いて思ったのです。離れていった人を引き寄せるのが御言葉と御霊の力だとするなら、待って祈るだけじゃなく、私達自身の中で大切にしたい事がある。教会にいながら、すぐに神様から心離れる自分を自分で認めること。そして、そんな私をでもみことばが何度も、いのちの言葉として私の心に飛び込んできてくれたから離れないでいられた。その恵みに自分自身が感謝できたなら、あの人についても、御言葉の力に期待できるようになれる。

イエス様の聞きたい言葉

イエス様は、あなたから私達は絶対に離れませんという気合の入った言葉を私達から聞きたい訳じゃない。洗礼の時の誓約だって、クリスチャンになって生きている今だって。だって、離れて行きたくなるの知っているからって。

最後にじゃあ、それでも何で、イエス様は、あなたがたも離れて行きたいのですかという問いかけをしたのでしょう。ペテロ達の気持ちを聞きたかったのでしょう。

それでも、今、イエス様について行きたいと思う、素直な人間の気持ちをイエス様は聞きたいのです。私があなたを選んだから、父が私に与えたものだから、あなたは守られるのだけれど、その上で、ついていきたいという言葉が欲しい。イエス様は愛の神だから、愛されたら嬉しいんです。離れて行ったら辛いんです。多くの人が離れ去っていく中で、でもあなたは私と一緒にいたいと言ってくれる、その言葉が聞けて嬉しいと言ってくれる。

あなたの言葉が聞きたいんです。あなたの心が、イエス様の関心事なのです。

愛の強さ、たしかが問題ではない。私が支えるから、そう思うなら言ってほしい。その言葉の重みは私がつけてあげるから。「主よ、私達は誰のところに行けるのでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(終わり)