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ヨハネ4章19節~26節

この山でも、エルサレムでもなく(2026年5月3日)

私を満たしてくださる方

真昼の他に誰もいない井戸の傍で、イエス様とサマリア人の女の会話が続いています。水を汲みに来た彼女は、この見知らぬユダヤ人の旅人と話していて、自分の中にある心の渇きが癒されていくのを感じていました。イエス様は、私は生ける水を与える事ができる、そう不思議な事を彼女に言いました。この井戸から水を飲む人は誰でもまた渇きます。しかし、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。

そして、イエス様は、彼女の隠したい一番の問題を言い当てました。彼女は、五回離婚を繰り返し、今も別の男性と同棲をしていた。人の愛情に満たされない思いを抱えながらも、それがないとどうしても渇くから、求めずにいられない。毎日汲みに来るこの井戸の水はそんな彼女の生活そのものでした。しかし、イエス様だけは彼女の心を満たすことができる。

19節で彼女は言います。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」イエス様から自分こそが救い主だと、彼女が知らされるのはもう少し後ですが、目の前の見知らぬ旅人を、神が自分に送ってくれた特別な人だと彼女は分かってきました。

宗教が生む対立

ところが、続いて彼女は、私達にとっては意外な話題を投げかけるんです。19節続き「私達の先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」彼女達がいる所のすぐ傍に、ゲリジム山という山がありました。ここはサマリア教の聖地として、神殿が建てられていました。でも、彼女の時代その神殿は廃墟となっていました。ユダヤ人がここを聖地と認めず、攻め込んできて壊したのです。

彼女達サマリア人と、イエス様が属するユダヤ人は、宗教戦争を経験した関係でした。元はでも、同じ1つの民族、同じ聖書の神を信じていたんです。ですがずっと昔にイスラエルという国が、2つに分かれてから、お互いは別々の道を歩む事になります。その過程で、北のサマリア人は混血が進み、聖書も旧約の最初5つだけを信じ、自分達の神殿を建てるなどサマリア教ともはや区別される独自の変化を遂げていきました。それを、エルサレム神殿を聖地といただく正統ユダヤ教は認めることができず、他の民族以上に、お互い憎み合っていたのです。

この聖地、そして宗教戦争と聞くと、現代のパレスチナ問題、そしてエルサレムという場所を正直連想します。あの場所は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって聖地とされてきたために、歴史上何度も戦いが起きてきました。そして、その3つともにとって聖地という事から分かるように、この3つは私達が言う旧約聖書の神を信じているんです。しかし、キリストが救い主であるという点において信じているものが違うんです。

イエス様は良い、でも宗教は・・・

ですから、日本では時に言われます。宗教で戦争するなんて、宗教というのは怖い。何か、1つの事だけを強く信じるというのは、周りを認めない不寛容に繋がる。あるいはこれが多神教ならもっと違うのではないか。

このサマリアの女性が、ユダヤ人のイエス様に、私達って礼拝する場所が違いますよね、そう言った時、2つの宗教が対立をもたらしてきた現実に彼女は触れたのです。そして、私は、どちらを選べばいいのでしょうか。彼女は、身を持ち崩した女性です。サマリア教の祭司だって、彼女に眉をひそめたでしょう。礼拝に行ってなかったでしょう。そして彼女自身、自分の心を満たしてくれるのが、信仰だなんて思って生きてこなかった。そんな彼女が、目の前のイエス様には魅力を感じている。この方は特別だと思う。でも、ユダヤ人だ。なら私もユダヤ教に入ることになるのか。そしてサマリアの信仰を否定する側に回るのか。

彼女にとって、礼拝する場所という話題は、ですので、とても現実的な悩みだったんです。私達が教会に行き始めて、家の宗教とどうこれから向き合えばいいのかと牧師に相談するようなものです。

対立を越えて

しかし、イエス様は仰るのです。21節「イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」このゲリジム山でもエルサレムでもない、その場所の名前に積み重ねられた宗教の対立と悲しみの歴史を越えて、それぞれの場所で、共に父を見上げて礼拝をする日が来る。それが神様の願いなのです。

そのために、女の人よ私を信じなさい。

イエス様を信じるということは、自分と違う誰かを拒むことではありません。むしろ過去の争いを癒し、乗り越えていける力なのです。

救いはユダヤ人から来る

ただし、22節「救いはユダヤ人から来るのですから、私達は知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」ここでイエス様は、サマリア人と比べ、ユダヤ人の方が聖書の神様のことを正しく知っていると言われます。救いはユダヤ人から来るというのは、救い主がユダヤ人の中から出てくるという預言です。それはサマリア人の拒否した旧約の部分に書いてありました。ユダヤ人は、その事は知って礼拝をしている。

救い主についての知識があるかどうかでいうと、ユダヤ教よりも、キリスト教はより知って今礼拝しています。ユダヤ教は今も救い主がこれから来るとずっと待っていますが、もう2000年前に来てくれた。今日の場面で、サマリアの女の前に立って、私を信じなさいと仰るお方、イエス・キリストとして。この方が十字架にかかって私達の罪のために死んでくれた事を信じる事だけが救いです。すべての宗教のいう救いが、実は同じ救いだという事は言えません。

知らないで礼拝をしている

ですが、イエス様は仰る、「あなたがたは知らないで礼拝をしている」神を求めるサマリア人の心をイエス様はお認めになっておられます。

この他宗教への態度は、使徒パウロという人が、ギリシャのアテネで伝道した時もそうでした。多神教を奉じる人々に彼は言うんです。「あなたたちはあらゆる点で宗教心にあつい人々だと私は見ております。」これは、皮肉な挑戦では全然ありません。

キリストという救い主を知らないまま、でも真剣に神という存在を求めた人達がいました。そして、人の救いのために、自分のいのちを投げうった人達がいました。

私の祖父は和尚でした。島の人のために、大変なご労を取られた人でした。牧師の息子のように、お坊さんの息子として、祖父の姿を横で見てきた父の知る祖父の姿があります。お盆の頃の度に檀家さんの家に回る。年に1回だから、檀家さんはお酒をふるまう。ニコニコして祖父は飲みながら、それを1日に何軒も回る。次の家に入る前に、祖父は、しんどそうな顔をしていた。でも、それぞれの人にとっては年に1回の楽しみに待っている時だからと、ケロッとした顔で行く。そこで、色んな愚痴を聞き、悩みを聞く。人の魂に、関わるっていうのは、そういう泥臭い犠牲を払うことなんだ。一度父が私に話してくれた事があります。

そういう人生を、否定し、拒むことが教会のすることなのか。違う神を信じている人とは、クリスチャンにとって神の名のもとにミサイルの雨を打ち込んでいい存在なのか。イエス様はそんなことをしないと私は思うのです。

だからクリスチャンは、謙遜になりたい。その上で、私達が、他の人々がまだ知らない、イエス・キリストというお方を知っている、救いを知っている事に感謝したいのです。

私は他の人より優れているからイエス様を知っているのではない。立派だから、牧師をしているのではない。私の祖父の話を聞くと、人への私の労など、足りないと思う。でも、イエス様という神が私を愛してくれた。命を捨てるほどに、その愛に感謝して、生きていきたい。イエス様の素晴らしさを伝えていきたいと思っているのです。

教会の礼拝を考える

そして、今日、私達が聞くべき言葉があります。23節「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人達を、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」

父なる神が教会に望んでいるのは、過去のキリスト教がやって来たような、神様気取りで正義の鉄槌を下す事ではありません。好き勝手に信仰と結び付けて自分の主張を正当化させる事でもありません。日本のクリスチャン人口は少ないから、社会や世界に向けてそういう目立つ発言をする事がないけれど、そのわずかな人口の中で、クリスチャン同士が、時に、自分の見解を信仰の問題にしちゃって両方譲れなくなるって不幸があるんです。父が求めているのは、私達が、まことの礼拝者でいる事です。

キリスト教国のヨーロッパでは、由緒ある大きな大聖堂で行われる日曜日の礼拝に集まる人はまばらだと言われます。しかし一方で、人が集まっている教会もある。それは、聖書が礼拝で本気で語られる教会なんだそうです。若者にとっても、イスラムの国から来た移民にとっても、イエス様というお方は新鮮で、魅力的なんです。

霊とまことによる礼拝

そして、今日、この山でもなく、エルサレムでもなくとありますから、この礼拝は、どこででも毎日できる。そしてイエス様は言われます。「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」

御霊と真理による礼拝とは何でしょうか。前の第3版では、霊とまことによる礼拝と言葉遣いが違います。自分の霊魂の全てを持って、まことの誠意をもって、捧げる礼拝、そんな風に言われる事もありますが、厳密にはこの箇所は、そういう私達の心構えを言っている箇所ではないようです。

そして、そもそも心構えでどうにかなるものでしょうか。私たちは、自分の力で、まことの礼拝者にはなれないのです。他の事を考えながら、惰性で読む聖書があります。他の宗教の人よりも、私達全員がいつも信仰心にあついと胸を張って言えるか。少なくとも私は言えない。でもそれを認めるところからむしろ、まことの礼拝って始まると思うんです。

この霊とは、私の霊ではなく、2017が訳しているように御霊、私達を助けてくれる聖霊です。そして真理、まこととは、この福音書ではイエス様のことです。こんな私が、神に招かれ、聖霊の助けを借りて、イエス様によって礼拝をする。聖書を読んでいる。

サマリアの女を訪ねてくださった主が、その時、私たちを訪ねてくださるのです。彼女は全くイエス様を迎える用意などできていませんでした。礼拝者として整えられてもいないのです。心の準備のなく、始まったイエス様との会話です。でもその対話の中で、心を開き、すべてを明け渡していったのです。

私達もだから日々、祈る時、聖書に触れる時、気持ちが向かず、気持ちが乱れていても、

焦る必要もないし、諦める必要もない。こんな礼拝者じゃ自分はダメだと思う必要もない、

イエス様との会話はその時すでに始まっている。その聖書の言葉が、今日1日の自分を変えていくのです。読まないではじめる1日とやはり全然違うんです。心に思い描く事が、口から出てくる言葉が違ってくるんです。霊とまことの礼拝とは、クリスチャンが立派な礼拝ではありません。こんな私の礼拝なのに、でも神が受け止めてくれて、私を変えていく、聖霊とイエス様が凄い、そんな礼拝が私達にはあるんですね。

赦しあわずにいられない

はっきり言って、宗教の名の元に戦争をするクリスチャンは、人の罪がいかに深いかを教えてくれる良い見本です。私達だってでもそうやって都合よく神様を持ち出す。でも本当にイエス様に私達出会ったら、イエス様のように、魅力的な生き方ができるのです。

それは、赦すという生き方です。そして対立を越えるため、自分が傷つく事を選ぶということです。ユダヤ人のためにも、サマリア人のためにもイエス様は十字架で死んでくださいました。そして、イエス様を信じるユダヤ人の弟子達は、敵意を乗り越えて、サマリアにやがて使徒の働きで伝道に行くんです。それは、愛の好意でした。そして、サマリア人も救われて、この2つの民族は一緒に神様を見上げていった。

キリスト教国アメリカの信仰の力が世界に示された出来事があります。アメリカの黒人差別と戦う運動に身を投じたマーチン・ルーサー・キング・ジュニアは牧師でした。有名なIhavea dreamのスピーチは、聖書の言葉や教えが染みわたったもはや1つの説教です。その彼が、ジョージア州の刑務所にとり入れられていたときに、イエス・キリストの「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に基づく説教を発表したんです。その言葉は、獄中において彼が1人で行った礼拝から生み出された言葉です。そして、彼の言葉を通してイエス・キリストの思いに触れ、感化されたアメリカの人々が、白人も黒人も対立を乗り越えていく道へと進んでいったのです。

私達それぞれの毎日の礼拝もそうです。私を変える。1人1人が生きる場所において、起こる小さな変化が世界を変えて行く。言い返すよりも赦すこと、愛すること、人に仕えること、それを選ぶことで確かに何かが変わっていく。

私を信じなさい

25節“女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私達に知らせてくださるでしょう」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです」”

イエス様は23節で仰いました。「今がその時です」御霊とイエスによる礼拝、私を赦しと愛へと駆り立てる、対立を越えて行ける力が、今、私達の中にすでに始まっています。そのような私達の姿を通して、イエス様はご自身をこの世界に伝えたいのではないでしょうか。(終わり)