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使徒の働き8章4節から23節

サマリアに下った聖霊(2025年5月24日ペンテコステ礼拝)

力強い聖霊の働き

先ほど読んでいただいたのは、サマリアの人々に聖霊が下る場面でした。礼拝では最近ヨハネ福音書のサマリアの女性とイエス様との会話を見てきていました。イエス様による最初のサマリア宣教の後、地上に残された教会は、エルサレムでの迫害を機に、再びこの地に福音を伝えに行く事になりました。

5節「ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。汚れた霊につかれた多くの人たちから、その霊が大声で叫びながら出て行き、中風の人や足の不自由な人が数多く癒されたからである。」そこで用いられたこのピリポとは使徒ピリポではありません。教会の実務を任されていた執事ピリポです。しかし、使徒ペテロがエルサレムで行っていたあの癒しのわざを、彼も行う事ができました。聖霊がピリポにも下っていたからです。

ピリポを通して、サマリアで、イエス様を信じ洗礼を受ける人々が次々に起こされてゆく。それを聞いて、今度は使徒ペテロとヨハネが教会から派遣されます。15節「2人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちの誰も下っていなかったからであった。そこで2人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」サマリアの町で、次々に目をみはるような出来事が起こっていきました。人々は、力強い聖霊の働きに、圧倒されてばかりだったのです。

魔術師シモン

しかし、それに対して間違った反応を示し、使徒ペテロに叱責される人が出てきます。18節『シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒達のところに金を持って来て「私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にもください」と言った。』

このシモンは、以前からこの町で、魔術師をしていました。当時の魔術は、霊を呼び寄せたり、未来を言い当てたり、呪いや幸運を人にもたらすとされていました。また、病気の癒しが起きたと見せかけるパフォーマンスも行っていたそうです。シモンは実にうまくやっていて、この町では小さい者から大きな者までが「この人こそ、大能と呼ばれる神の力だ」と言っていたほどでした。

そんな彼も、「シモン自身も信じてバプテスマを受け」た、と13節にあります。そして「いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた。」自分と違って本当に人を癒すことができていると、シモンは素直に認めます。そしてピリポにつき従った。これは執着するという意味で、ぴったりとピリポにくっついていた。

でもその動議が何だったか、ペテロに金を持ってきた時に明らかになったのです。自分にもピリポのように人を癒す力が欲しい。だから、つき従っていた。当時の魔術師は、そうやって師匠の傍で魔術のやり方を学んでいたのです。そして、師匠に金を渡す事で、特別な魔術の力を分け与えてもらうという事がありました。シモンにとっては、これまでと同じようにしたつもりだったのです。

神の賜物

しかしそんな彼に20節でペテロは言います。「おまえの金は、おまえとともに滅びるが良い。お前が金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。」「神の賜物」とあります。聖霊の働きとは、一人ひとりへの神の贈り物なのです。お金で買えるものでもなければ、欲しいと願っても同じように与えられるとは限りません。

もちろん、私達、誰かに憧れて、あんな風になりたいと近くで学ぶという事はあります。それによって自分の賜物を磨ける事はあるんです。私は神学生時代からずっと鳩ケ谷の大嶋先生の説教に憧れています。自分から面識のなかった先生にアポイントを取って会いに行き、牧師のインターンもぜひ行かせてくほしいと頼みました。蕨に帰ってきて説教したら、ある人に、口調まで大嶋先生みたいだったと笑われたのです。先生の本も全部買いました。でも、それによって磨けるのはあくまで自分の賜物です。全く同じ賜物が与えられている人など誰もいません。

聖霊の働きは福音に関心を持たせるため

そもそも、シモンはその賜物を何のために求めていたのか。彼にとっては9節で「彼は魔術を行ってサマリアの人々を驚かせ、自分は偉大な者だと話していた。小さい者から大きな者まで、すべての人々が彼に関心を抱き」目立つ力は、自分に関心を抱かせ、自分を偉大な者にするためでした。

でも、ピリポの癒しのわざは違いました。6節「群衆はピリポの話を聞き、彼が行っていたしるしを見て、彼が語ることに、そろって関心を抱くようになった。」人々の関心は、ピリポが語る福音に向かっていきました。そしてそれがピリポの願いでもあったのです。力強い賜物とは、あくまで人がイエス様に関心を持ってもらうためのものでした。自分はどうだっていいのです。

ここにシモンの一番の間違いがあったんです。そしてペテロに見抜かれてしまいます。23節で「おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ」。救われる前に縛られていた、不義の束縛の中にまだあなたはいる。自分のために賜物をまだあなたは求めている。

確かに救われる前は、神のために生きるという考えがまずありませんでした。才能とは、自分のために使うものでした。だから、自分よりも周りからチヤホヤされる人がいたら嫉妬した。でも、案外今も、同じじゃなかろうか。自分よりも上手くできる人がうらやましい。いつも名前が上がるあの人に比べ、誰も私も見てくれない。褒めてくれない。違う、あなたは人を見てしまっている。神に注目しなさい。何のために神は人に賜物を与えておられるのか。

神のみわざを共に喜ぶ

 そんな風に使徒ペテロの働きに、神を見た人がこの場面います。ピリポです。皆さん、執事ピリポの立場を想像してほしいんです。聖霊は使徒ペテロ達が来て、手を置くまでサマリア人に下らなかったのです。普通は、私達と同じように、信じた瞬間に聖霊が心に宿るのです。ペンテコステの日に聖霊が下った時も、誰かが手を置く必要もありませんした。ですが、どうやら、この時は使徒達がそこに携わる必要があると神様はお思いになったようです。初めて、ユダヤ人以外のサマリア人に聖霊が下さる瞬間を、教会の代表者である使徒に携わらせたかったのかもしれません。初めて異邦人コルネリアが信じ聖霊が下った時も使徒ペテロが立ち会っていたように。その役割は執事ピリポじゃダメだったのでしょう。

私がピリポだったら、悔しい気持ちになったんじゃないかなと思ったのです。なんでペテロ達が来るまで自分が導いた人に聖霊が下らなかったのか、自分の説教が足りなかったのか。そして皆の注目が、自分から、使徒ペテロに移っていくんです。本物が来た。そして、自分にできない事を彼が来た途端行っていく。聖霊が下る。たとえていうなら、大嶋先生が蕨の特別礼拝に来る。来てほしいですね。礼拝中もう皆泣いている。なぜ自分じゃこの光景が起きなかったのか。私がピリポなら、ペテロ達が手を置いて人々に祈っている間、失敗しろ、何も起きるなと思ったかもしれない。そして、そんな思いをほんの少しでも抱いた自分を恥じて、聖霊が下った人達の喜びの中に気まずい思いをしたかもしれない。

結局、賜物を、自分のために使おうとする人だから、他の人の賜物と出会った時、その人の事を見てしまうんです。そして、心が穏やかになれない。でも、神のために自分の賜物があると分かっている人は、他の人の賜物を喜べるんです。ああ、ペテロを通して、今神様は、働きをなしておられる。ピリポは感動して、涙してたと思うんです。

そして使徒ペテロも、当然、執事ピリポを見下したりなんてしていない。お互いに、神様に任された役割を与えられた賜物でやり遂げた。そんな2人だからお互いをねぎらえるのです。

私とあの人の境目が消えていく

神様を見ている人同士では、働きにおいて私とあの人という境目が消えていきます。どちらがより人から賞賛されているかなんてどうでも良くなってくるのです。世の中では、違います。自分が評価されない限り、他の人に自分の場所さえ奪われてしまいます。だから、認められることにやっきになるし、お互いが足を引っ張り合う事だってあるでしょう。人の賜物を認めることもできない。あの人はこういう所が良くないと、他の人に言う事で、自分への注目を引き留めようとさえします。でもクリスチャンは本来違うはずです。私達、安心して他の人の活躍を喜べるようになりたい。

残念ながら、教会においても、賜物に溢れた人がいたら、その人そのものが注目されてしまう事があります。そして時にそんな人は、逆に誤解されたり、陰口を言われたり、周りとうまくやっていけなくなる事があります。あいつは傲慢だ、なんでもでしゃばって。でも自分はたた神様のために自分に出来る事をしただけなのに、何でこんな風に言われなければいけないかったんだろう、もう人前で何かしたくない。

どんなに優れた人も、得意不得意がある。欠けがある部分もある。人知れず傷ついている事だってあるでしょう。その時、傍にいる誰かがその人を支えることもできるでしょう。そこに優しさという目立たない賜物が生かされることもあるでしょう。そして人の活躍を通しキリストが証されている事を一緒に喜べるようになれたら、私達ちゃんと人ではなく、神様を見れているのです。

どんな小さなわざも聖霊の賜物

 また、この聖霊が下った瞬間を共に喜んだのは、使徒ペテロとヨハネ、執事ピリポだけではなかった。名前が出てこない、サマリア宣教に携わったクリスチャン達がいたはずです。ペンテコステの日に救われたユダヤ人が3000人、そこから毎日エルサレムで救われる人々を神様は加えられた。エルサレムで起きた迫害で、サマリアに向かったのはピリポ1人だけとは考えられません。サマリア地方の町もいくつもあるのです。そして、ピリポ達に伝道されて信じたサマリア人の中には、同胞達の救いのため、働きに加わった人達もいたでしょう。

彼らは、確かに、ピリポのようには癒しができなかったかもしれません。でも、人を、キリストに関心を向かせる働きというのは、目立つ奇跡だけではありません。この後、アンティオキアという場所で、使徒でも執事でもない無名な人達によって教会が出来て行った事が使徒の働きに記されています。賜物に溢れた人じゃなくても大丈夫なのです。キリストを証しすることができるのは、取り立てて聖書が書いてはいない、ささやかな愛のわざ、優しさも同じです。

それぞれの花を精一杯咲かせて

 私達、やはり人を見る弱さがあると思います、目立つ賜物の人をヒーロー、後はエキストラの方々にしてしまう。そして自分も、どうせ私なんてと。もっとできる人なんて沢山いるから。こんなの賜物なんて言ったら畏れ多い。賜物をちゃんと神様からいただいているのに、自分でそれを認められない。そういう人だっているでしょう。

でもこう考えてほしいんです。私は、バラが好きです。キッチンの裏の駐車場の壁の、杏子色のツルバラは、もう植えて3年目で、今年は沢山の花をつけてくれました。気を付けないと、駐車スペースにも枝が迫ってきてしまうのですが、近所の人や、北町公民館に行く人達が立ち止まって眺めてくれているのを見て嬉しくなります。でも、大輪のバラの下に、小さな可憐な黄色い花が咲いている、そんな花も愛しいんです。そこにその花があるか、雑草かでは全然違う。お互いが引き立てあって、1つの風景を作っているんです。

そして、花は、お互いの事を見てはいません。それぞれが一心に、太陽の方を向いて咲くんです。そんな風に、自然は主の栄光をその姿で証している。

教会もそうだと思います。色んな賜物がある。目立つ賜物もある。静かに祈る賜物もある。大胆に物事前に進める力を持っている人もいれば、いつもニコニコしてるだけであんまり意見言わない人もいる。でも、その人がいなくなった途端、実は、その人がいたから色々円滑に回ってたんだって気づく。そんな色んな賜物が、お互いを妬まず、共に神様を見上げてる。太陽に向かって花を咲かせている。その姿こそが教会なんです。賜物の輝きにあふれ、イエス様をそれぞれが指し示す教会。

聖霊のもたらす大いなる喜び

 8節「その町には大きな喜びがあった。」サマリアの人々は、自分や周りの人々の病が癒されていく経験をしました。でも、それ以上に、何よりもイエス・キリストと出会った。だからそんな大きな喜びが彼らにはあった。

 思うのです。でも、魔術師シモンにはその喜びはあったでしょうか。人の賜物を欲しがっている間、シモンは信じたのに、なおも満たされていなかったのではないかと思います。

ペテロ達が来て、こうしてサマリアの人々にも聖霊は下りました。彼らも癒しの奇跡はできなかったと思います。でも、聖霊は、引き続き彼らの心に喜びを与えてくださったでしょう。神を見上げる時に与えられる喜びが彼らの心を満たし続けていったのです。

そして、この町の人達は、聖書の記述からはこれで消えていきます。ピリポや、ペテロ、そしてパウロばかり。いいのです。私が成し遂げたこと、あの人がしたこと、その境目がなくなって、キリストが証されていく事を一緒に喜べるようにしていきたい。あの日下った聖霊が彼らにそうさせてくれたでしょう。そして、この名もなき人達の小さな賜物は、この町で輝き続け、人々をイエス様に向けさせていったのでありましょう。祈ります。(終わり)